本来と言うか、元の意味の才能は民主化(共有)できるようなものではないでしょう。
「楽しんでそれをやれるなら、才能がある」とよく言われるように、才能とは続け、飽きないこと自体でしょう。
今回で才能の民主化とバカが騒いでいるものは、技法やテクニックに過ぎないものが鍛錬を経ずに使える(ように見える)だけで、才能というのは一向に民主化(共有)されていません。
熱心にsdのプロンプト練りやらloraやら追加学習に取り組んでイラストを出したり、熱心にNovelaiをシバいて小説を作ったりするのは、才能が民主化されたのではなく、その人らにそのような才能があっただけでしょう。
私は初代Novelai diffusion、sd1.5、NovelaiV3、sdxlとこれまで触ってきて、どれもこれも1〜2ヶ月で飽きました。
才能がない証左です。