不思議だ。
それが確定で分かる描写は作中に一切ない。
それなのに我々の多くが「嫌韓流は本気で韓国アンチを正しい行為だと思ってやっているガチ嫌韓だが、テコンダー朴は韓国アンチと韓国を同時に馬鹿にしている全方位冷笑型である」だと感じている。(「察している」と書きそうになったほどだが、察しているという表現は少なくとも自分の中でその内容が正解であることが99%確定しているような状況で使うべきなので、この状況にはふさわしくないと思い、「感じている」とした。)
不思議だ。
作中の人物は誰もが本気でその瞬間瞬間を必死に生きているのに。
それなのに我々はそこにそれらが単なる冗談に過ぎない世界観を感じ取るのだ。
どこでそれを切り分けた?
謎だ。