●美しい花がある。花の美しさというようなものはない
最初は前者が主観で後者が客観で、客観というようなものはない。主観的客観があるのみだと思っていた
今はもう少し単純に考えている。というより彼の講演の話に出てくる「経験について」をそのまま当てはめただけだが
水は、小さい頃に飲んだ一杯の美味しい水が、僕にとっての水だ。人間的経験としての水だ
だがH2Oという風に性質を知るというのは、科学的認識ではあっても人間的経験として知るということではない
“人間にとって本当に知るということ”とは、そういう風に自分が花を見て“美しい”と感動するところ以外にはない、
これはあくまでその一文にコンデイしてものを言おうとしているので、当麻全体からしたら、もしかしたらそれほど意味のないことかもしれん。こういう一種の( )に惑わされること自体が、化かされているのだとも言えるだろうか。
アレかと思っちゃった。プラトンの。 花なら花の、馬なら馬の、人なら人の鋳型があるという。 「でもそんなのホントはないんだよ」っていう話かと。
返信遅くて済みません プラトンにそういう話があるのですか。よければどの作品にあったのか教えていただけませんか。読んでみたいのですが検索してもよくわかりませんでした。 プ...
いや、イデア論って鋳型やん?という。 プラトン「花の美というのがイデア界にある。個々の花はその似姿にすぎない。花の美に気づくことこそが真の想起すなわちアナムネーシス」 小...
新潮の『弁明』は持ってます。パイドンでしたか。ありがとうございます プラトンを好きとか言っておきながら恥ずかしいのですが、イデア論のことがよくわからなくて… 美しさなん...