本に書いてあることを何気なく音読したり、ふと思い付いたことを口に出したりする。
自分の発音が気に入らなければ何度も何度も繰り返し音読する。
この前は「うぃとげんしゅたいんのゆめ」と6回ぐらい音読していた。
「と」がきっちり発音できないと舌の辺りがむずがゆくなってしまうのが主な原因である。
ちなみに、本を読んでいるときは常に誰かに語りかけている感じで独り言を言う。
「そうじゃない」とか「こう考えても面白い」とかetc.
多分そういう思考回路が俺に染み付いてしまったわけで、同じようなことをやっている人間もそう少なくはないだろう。
まあでも、こういうのはひょっとしたらチック症の一種みたいなものかもしれない。
俺はチック症の主な症状と見なされている行動をほとんど我が身でもって体験してきたので、
必ず一日に三回は襲ってくる「やっちゃ駄目なのに無性にやりたい」という感覚に凄く敏感になっている。
そして、その感覚に自分で気が付いてしまったが最後、一分も耐えられずに俺の舌は勝手に動き出しているわけである。
独り言を言う癖はもはや完治を諦めているというか、別に誰の迷惑にもならないのであれば勝手にしようと思っている。
しかし、問題はその独り言の内容である。
「これを言ったらさすがにまずいだろう」という言葉を何度も何度も音読してしまう、ということがたびたびある。
卑近な例を挙げれば「○○のおまんこ」とかそんな言葉である。
この言葉は凄く迷惑だ。
何故かと言えば、○○の部分を色々いじくるだけでも無限の可能性が生まれるからだ。
石原慎太郎のおまんこ、なんて逆説的でなかなか破壊力のあるフレーズである。
○○の内容が自分の知っている人間であるとさらにひどい。
肉親だと最悪。
もうこれ以上は例を挙げるべくもないが(各人色々と○○の中身をいじくって、それを口に出すことの恥ずかしさを思い浮かべてもらいたい)、
とにかく、自分でより恥ずかしいと思えるフレーズが想起されればされるほど、逆にそれを口に出す圧力は高まっていく。
そしてそれを五回ほど口に出す。
まるでその言葉に対する世界の耐久力を確かめているかのように、入念に、丹念に、口に出す。
それを音読しながらまた別のフレーズが想起されれば、今度はそちらを口に出す。
もうやめたい、という思いで泣きそうになっている俺を尻目に、深夜五時の俺の部屋には無数の言霊fromおまんこが浮遊している。
何よりも耐え難いのは、恥ずかしいフレーズの雛形が思い浮かんでしまうたびに、それらが知識として俺に吸収されてしまうことだ。
それらは俺の口から発せられることを期待して、今も喉の奥のどこかに眠っている。
そして、そのことを認識するときに俺は、自殺するのもいいかもしれないな、と思ったりする。
それらのフレーズとこれから30年も40年も付き合っていくのかと言うと、もはや絶望以外に思い浮かぶことはない。
ウィトゲンシュタインが言語・ゲーム・形式について思索していた年齢にもなって、俺はおまんこおまんこと独り言を言っているのである。救われない。
母親に顔を見るだけでいらいらすると言われたときも、同級生にうんこの臭いがすると言われたときも、
そしたら本当に学校でうんこを漏らしてしまったときも、自殺するまでは考えたことはなかった。
その一瞬だけの圧倒的な不名誉よりも、人生にどろりと付着した個人的な不名誉のほうが、強く訴えかけてくるものがある。
どちらかと言えば、絶望というのは刹那よりもむしろ安定を好むのだろう。
その証拠に、今こうして文章を書いているときだけは、不思議と独り言を言いたいという欲望は襲ってこない。
これは文章を書いているときぐらいは許してやろうという絶望様の心遣いかもしれない。
ただ単に、文章を書いているときは俺の知能レベルが低下して、独り言を言う暇がないだけかもしれない。
いずれにせよ、ブログの文章を練りながらキーボードを叩いているときは、平静な気持ちでいられる。
これだけでも、ブログが俺に与えてくれたものは大きい(これがチャットや掲示板だと、うまくいかないらしい)。
書きたいことがなくなった。
「この内容を登録する」ボタンを押せばたちまち、俺はまた放り出されることになる。
いつ独り言を言いたい欲望が襲ってくるのか分からない、不安定な世界に。
まあ絶望様もそこまで非情ではないようなので、三時間ぐらいは落ち着いた時間を俺にプレゼントしてくれるだろう。
次に絶望様がその姿を見せたら、そのときは大人しくベッドに入ろう。
さすがに、希望も絶望もウィトゲンシュタインも、睡眠には勝てないようだ。
トゥーレット症候群、またはトゥレット症候群と呼ばれるものかも。