はてなキーワード: 刹那とは
社会の前提は持続性。21世紀の展望がない今、老人は若者について考慮せず、若者は刹那主義に走る。年金未納率は40%超であり、それなりの規模でこの思想は信奉されている。
ドイツがギリシャに抱いてる気持ちと大体同じ。イエスの寓話ですらブドウ園に来なかったものに1デナリを渡そうとしたわけじゃあない。いやリアルでパンが分けてもなくならないのならいいですけどもw・・
働けないことが問題?
実のところ最適な答えはパンでなく、仕事を分け合うことだと思っている。労働の再分配はやりがいの再分配。QOLや「文化的」と突き詰めた時の答えが生保や年金だとは思わない。もしそうなら孤独死とはなんなのか。ある意味、安楽死の方がマシかもわからない。
「労働」のハードルが上がりすぎ。9時~6時で働けるやつは聖人君子かと思うわ。年金制度ってようは肉体労働がメインだった頃にできた制度っしょ?知的労働はいくつになってもできる気がするが。本当にどうしようもない人は相当少ないんでは?
むしろ老人ホームの害悪はボケになりやすいことだったりする。慰問とか行っていたが、入居したころは普通でも、1,2、年たつとすごいぼけてしまう人がいる。(つか慰問って言葉がすごく嫌いなんだけど)
あと小学生の時にショックだったのは別れ際に握手して回ったときに手を離さないおじいちゃんがいたこと。屋根や食事があっても想像を絶するさみしさがあるわけじゃない?それでブンカ的生活とか笑わせるなと。
国家による保障はどうしても機械的にならざるをえない。あくまで最後の砦であって、その前にやるべきことがあるんじゃないの?自助・共助・公助というと月並みかもしれないが、特に共助が弱いと思っている。
なんでこんなに税金はらわにゃならんのだっていうのももっともだし、逆に払ってるからそれでいいでしょというもんでもないと思う。
~権という考えは大事だとは思うけど、それでスパッ、スパッと物事を切り分けて解決する問題でもないっしょ。もうちょっと見方を変えてみたい。
若者の意識や離職率に急激な変化は見られない。企業側の採用行動の変化により、希望通りのコースを歩めないというのが事実である。働く意志がある人間がなぜ働けないのかという観点から、企業の側の原因が指摘されてきた。これを、働く意思の存在しない、特異な傾向を持つ集団にフォーカスすることによって若者が甘えているからいけないのだ、と「問題のすり替え」が行われているのがニート問題(あくまで2005年段階の話です)。実際は、たとえニートを働かざるをえない状況に追い込んでも働くことはできない人が多数いることが問題。
しかもニートの中でも「刹那を生きる型、つながりを失う型、立ちすくむ型、自信を失う型」の4類型が確認されているが、このうち「刹那を生きる型」のみに焦点が当たっている。ニートについてすら正確に理解されていない。ニートですら甘えが本質問題ではない。
高度に専門化した現在の職業状況では、最も多いと言われる文系のフリーターがちょっと訓練さr他程度では使いものにならない。それゆえ彼らはノースキルでもなんとかなるアルバイトや派遣社員を選択せざるを得ず、また企業側もそうした使い捨ての人材を欲するという構造的悪循環。しかもこれを放置していると潰しの聞かない人材を多く抱えたフリーター世代が後世で日本社会の大きな負債となる。
そもそも若年層の就業問題とは、既得権益を有した、特に男性の年長世代が、相対的な弱者としての若者にたかる構造だったのだ。若者はそうして保護された親の既得権益にたかりかえしているのであり、あくまで「たかりあい」の関係。この認識ができていないと議論が進まない。
自己責任原則は、一方で国や企業に頼るなといいながら、あらゆる長期計画(安定性)を放棄せよというダブルバインドなメッセージを発している。若者たちはこの分裂したメッセージに対処するために、やりたいことを目指しながら、現在の状況をそのまま受け入れるという宿命論を招き入れざるを得ない。結果、不断の躁鬱状態に置かれることになる。
なんか意味わからん理屈持ちだされてきたんだけど、ランチなら下心がないって意味わからん。
同性コミュ養分は足りてるし、さすがにこのぐらいで妻はとやかく言わないよ。
電話ってなんか物足りなくない?電話やメール、Twitter系で満たされるならそれで済ますよ。当たり前でしょ。
つーか妻がいるなら妻ともっと話せばいいじゃん。家族だろ。
これは妻に限らず、父母や妹と話してもそうなんだけど、レスポンスがわかっちゃうんだよね。
だから仕事の話とか日常的な話したりするのは家族の方が捗るよね。捗るけど、満たされない。わかっちゃうから。
例えばさ、風俗に通う人の中で、嬢とコミュニケーション取るっていう人いるじゃない?
ああいう気持ち、よくわかるんだよね。プレイしなくてもいいから素で話したい、どうせ一期一会だし、みたいな。
そういう刹那感というか、満たされたいんだよ。溜まったものを吐き出すだけじゃなくて、その時間空間を共有したいと言うか、うまく言語化できない感じ。
だから、最近デモとか割と見えやすくなってきたじゃん?で、デモに行こうかなとも思ったんだけど、政治とか苦手だし妻もそういうの好きじゃないしで、基本ナシ。
大きな大きな振動と、とてもとても、とてもうるさかった騒音が止んでしばらく経ちました。
私はいま、窮屈な檻に閉じ込められています。頑丈そうな鉄の棒が、循々と周りを囲っているのです。立ち上がることはできますが、歩くことはできません。同じ場所でくるくると尻尾を追いかけ回ってみれば、確かに多少なりとも運動にはなるのですが、目一杯走りまわることが何よりの楽しみである私にしてみれば、少々どころか全く物足りない状況に陥ってしまっているのです。
厳重に施された不自由は、身体はもちろんのこと精神をも蝕んでいくものです。鬱積し続ける不満によって、私の心身は内側から漆黒に染め上げられつつある――。
抗おうとは思うのです。けれど、行動を大きく制限された檻の中では、体制を変えたり、意味もなく回ってみたりすることがやっとなのです。それ以外には、丸まってふて寝をすることしかできません。そればかりか、少し前までは眠ることさえもが容易ではなかったのです。私が入れられた檻は、なんだかよく分からないランプがやたらめったらに点灯している円錐型の箱に囲われているのですが、この箱もまた異様なほど狭く小さくて、つまるところ私は極小の檻に捕らわれたまま、狭っ苦しい箱物に乗せられるや、いつ終わるともわからない唐突な振動と騒音とに怯えることを余儀なくされていたのです。
そうなのです。本当にけたたましい振動と騒音だったのです。私がまだ人に捕まることもなく、広い森の中を、あるいは街の中を自由に歩いて回っていた頃には体感したこともなかったほどの揺れと音だったのです。身体が芯から揺さぶられ、鼓膜が破れてしまうのではないかと怖くなったくらいです。いまも足元が揺れているような気がしますし、耳の奥がきーんと甲高い音を立てているような錯覚を覚えています。もう過ぎ去ってしまったことなのできっと幻覚なんだろうとは思うのですが、酷いものだなあと感じないわけにはいかないのです。
ため息混じりに、私はついつい考えてしまいます。ただただひたすらに死を恐怖し、生きることだけに全力を注いで日々を過ごしていた私を捕らえて、温かな毛布と、安全な空間を与えてくれた人間という存在は、どうしてこんな場所に私を閉じ込めたのでしょうか。人間でありながら独特の雰囲気を纏っていた彼女もまた、結局は他の人間と同様、小汚い私を忌み嫌い、時には石を投げつけたり蹴りあげたりする悪童や暴漢などの類と同じだったということなのでしょうか。
とてもとても優しくしてくれたのに。額を撫でてくれた手のひらが大きくて暖かくて、とうの昔に失くしてしまったはずの温もりを思い出しかけていたというのに。思わず寄りかかってしまいそうな、くっついて眠ってしまいたくなりそうな安らぎが、確かにあったはずだったのに。
どれもこれも私が抱いていた幻想だったというのでしょうか。ドロドロとした液状のご飯や、なぜこんなことをしなくてはならないのか全く意味のわからない厳しい訓練を終えた後、あらん限りの言葉と抱擁でもって褒め称えてくれたことの全てが、単なる演技だったと言うのでしょうか。
私を騙すために?
いいえ、そんなことはないはずです。長らく生きることだけに執着していた私にはよくわかるのです。相手の感情の機微というものが。真贋を見極める眼にだけは、確固たる自信があるのです。何が危険で何が安全か。鋭利な感覚を持ち合わせていなければ、私はこれまで生きてこられなかったわけなのですから。
主に彼女が私に与えてくれたものども。それは今まで口に含んだこともなかったような食事であり、おおよそ誰も経験したことのなかった訓練の数々でありました。それらは、正直なところ嫌なことばかりで、何度も何度も施設から逃げ出してやろうと考えてしまうくらいでした。伏せることも座ることも許されずにじっと立ち続ける訓練では、足ががくがくとしてくるのはもちろんのこと、身動きが取れずにもどかしい思いをしなくてはならなかったし、ごわごわとした衣服を着せられたことも、またへんてこな装置の中で外側へと押しつぶされるような力に耐える訓練も受ける羽目になったのです。
捕まえられた当初、私はそれらの訓練が心の底から嫌で嫌でたまりませんでした。自由に外を走り回りたかったし、物珍しそうに私を覗き込む人間たちが怖くておぞましくて我慢ならなかったのです。何度も何度も大声で威嚇しました。牙を見せ、爪を剥き出しにして、絶え間なく吠え続けることだけが、私に安らぎを与えてくれるものだと本能的に思い込んでいたのです。
でも、彼女は違いました。彼女だけは、意固地なまでに獰猛な態度をみせる私に歩み寄ろうとしてくれたのです。私と同様、人間たちに捕らえられたものたちの世話を、彼女は一手に引き受けていました。人見知りな私は、彼らとの接触すら断とうとできるだけ近寄らず、檻の隅っこで丸まる毎日だったのですが、彼女はそんな私に近づき、側にしゃがみ込んで、何をするでもなくただただ優しく見守ってくれていたのでした。
鉄の猜疑心と鉛の恐怖心とでがちがちに固められていた私の心を、彼女の眼差しはゆっくりと剥がし溶かしていったのです。ある日、そっと差し出された彼女の手のひらを、私はくんくんと嗅いでみました。素敵に柔らかな匂いがしました。寒くて余所余所しい無機質な施設の中で、彼女の手のひらからはミルクのような穏やかさが漏れ出していたのです。
それが彼女の本性なのか、それとも作り出した仮面だったのか、依然として私には確証が持てなかったのですが、取り敢えず気を許しても大丈夫そうだと判断しました。以降私は彼女にだけ従順な態度を取るようになったのです。
彼女は私の変化を大変嬉しがり、より一層私との距離を縮めようとしました。時たまその一歩が大きいことがあり、私の爪牙が彼女の手のひらを傷つけることもあったのですが、彼女の優しさは変わることなく、かえってより一層深いものへと変貌していくようでした。
この空に向こう側には何があると思う? 穏やかな声で彼女が問いかけてきたことがありました。その日はちょうど訓練も休みの日で、私は彼女に連れられて久々に施設の外へとやってきていたのでした。高台の上にある施設から少し離れたところになる平原で、私の隣に座った彼女は真っ青な大空を見上げながらそんなことを口にしたのでした。
無論、私には答えることなどできません。私の言葉は彼女には伝わらないし、そもそも空の向こうなんてものを想像したこともなかったのですから。だから私は内心、何も無いよ、ずっとずうっと空があるだけだよ、と思うだけ思って、黙っていました。
宇宙には何が待っているんだろうね。髪を押さえつけながら彼女はそう呟きました。ぼんやりとした夢見るかのような口調でしたが、その眼には溢れんばかりの光と希望が満ち溢れていました。
ああ、これが人間なのだな。刹那に、見上げたていた私は心底打ちのめされてしまいました。私なんぞが思いも至らない、想像することもなかった世界を見上げて、あまつさえその場所に名前を与えて、遂には到達することさえ見据えている。外へ外へと向かうことのできる、好奇心と云う名の侵略性を持ちえている存在が人間なのだなと。
がんばろうね。そう言って私に微笑んだ彼女の笑顔が、脳裏に焼き付いてしまいました。訳もわからないまま吠えて尻尾を振った私は、なんとも単純で愚かで滑稽でさえあったのかもしれません。それでもあの瞬間そうすることが何よりも正しかったし、そうあるべきだと自発的に思えたのです。驚いた様子の彼女は、すぐに満面の笑みを取り戻すと、ぎゅっと私の身体を抱きしめたのでした。ぎゅっと、ぎゅうっと抱きしめてくれたのでした。
それからどれほど時間が経ったのでしょう。訓練は次第に厳しさを増していき、それにともなって私が入れられる檻も小さな物へと変化していきました。最終的にはその場で立ち上がり一回転するのが精一杯な檻になったのです。狭くて心地よくなくて私の苛々は加速度的に増していきましたが、彼女の笑顔と時折見せる辛そうな表情とが頑丈な堰となって日々を乗り越えさていくことができたのでした。
私が入れられた極小の檻が狭っ苦しい箱物に搭載される直前に、私は彼女とお別れをしました。がんばってね、と彼女は真剣な表情で口にし、あなたならきっと大丈夫、と抱きしめてくれました。いつもと変わらない暖かくて安らぐことのできる抱擁だったのですが、その奥底に到底隠し切ることのできない感情があることに、私は気づかないままいられませんでした。
それは青い滴のような感情でした。爛漫な彼女が、穏やかで底抜けなまでに優しいはずの彼女が、気丈なほどいつもどおりに振る舞いながら、はたはたと湖面に水を漲らせている。後もう二三滴、滴が落ちればわっと決壊してしまいそうな静かな緊張感を、貼りつけた微笑の裏に懸命に隠そうとしている。
私にはもう、与えられた役目を見事遣り遂げることしかできなくなってしまったのでした。檻の中でじっとしたまま、何日間か我慢し続ける。寝食の問題はそれほどでもないにせよ、重なりに重なる苛々に耐え続けなければならないという辛抱のいる役目を負わないわけにはいかなくなったのです。
もちろん、私には我慢し続けられるだけの自信なんてありません。我慢しなければならない確固たる理由もないのです。しかしながら、彼女とのお別れをしている最中に、私の運命は定まってしまったのです。
私はライカ。クドリャフカのライカなのです。彼女に与えられた名前を、その時私は初めて意識したのでした。
私が入れられた檻を乗せた箱物は、依然としてたくさんのランプを点灯したまま変化がありません。宇宙への航行は順調に進んでいるようです。だから問題は私の方。じっとして我慢しなくてはならない私の方にこそ、この任務を遂行するための因子は偏っているのです。
一時はとんでもなく暑くなった船の中ですが、現在は然程でもありません。むしろぐんぐんと気温は下がってきていて、肌寒い気さえします。いいえ、もしかしたらまだまだ船の中は暑いままなのかもしれません。私にはもうよく分からないのです。もうずっと同じ景色のまま、朝も夜もわからず我慢し続けているのです。食事の回数までもが朧気になってしまっては、今が何日目の航行なのかを判別する術は残されていないのです。
狭い檻の中での排泄は、綺麗好きな私にとっては屈辱以外の何者でもありません。が、それさえも与えられた役割であり任務であるというのならば、私は彼女のために我慢し続けなければならないのです。もう少しだけ。もう少しだけ。我慢し辛抱し続けなければならないのです。
ああ、でも、なんだか疲れてきてしまいました。行動が制限されているので、食べては寝続けることしかやることがないのです。始まりこそそんなに眠ってばかりいられるかと思っていたのですが、案外眠れるもので、近頃は眠っている時間のほうが多い気さえするのです。とにかく眠くて眠くて堪らないのです。加えて眠っていると彼女との夢を見られるので幸せです。起きていると我慢しなくてはならないのですが、寝ていれば幸せなのです。とてもとても幸せなのです――。
かしゃんと、餌箱が開く音が微睡みの中に響き渡りました。また今回もドロドロとした美味しくもない食事が始まります。夢現な私の味覚はもう死んでしまっていますが、それでも食べないことには死んでしまいます。死ぬわけにはいかないのです。私の任務には生き続けることも含まれているのですから。
綺麗に器を舐めきって、私は再び丸まって檻の中に伏せます。次の食事の時間まで、また寝続けなければならないのです。あと何回このサイクルが繰り返されるのかはわかりません。でもとにかく続けなければならないのです。そのためには少しでも体力を温存しなくてはなりません。船内の景色を見続けるのは辛いので、眠って彼女と会うのです。会って彼女と戯れるのです。戯れたいのです。
広い高原で、彼女はずっと遠くで私を呼んでいます。私はその声に向かって全力で走るのです。カシャカシャと。檻が立てる音をも気にせず、夢現のまま全力疾走し続けるのです。まだ彼女の元まで届いたことはありませんが、きっといつの日か届くはずです。その時こそ、私の役目は、任務は遂げられるはずなのですから。
カシャカシャ、カシャ……カシャ……。
微笑を湛えた彼女の胸に飛び込む瞬間を今か今かと夢見ながら。
今朝の話でございます。通勤中、なんだか急に腹の具合がおかしくなり、乗換えで上野に下りたときには既にビッグウェーブ到来。
乗りたくない、このビッグウェーブに!と思ってとりあえず本屋脇のトイレへ小走りで向かうも、まずユニバーサルトイレでは何者かが既にフン闘中。
ますますノッて来る波に冷や汗をかきつつ、奥の男性用トイレへ向かうも、無情にも個室は全て使用中!!
てめーらのんきにクソしてんじゃねーよ、こちとら HP は既にゼロだけど隠しパラメータの根性値 (via ブレスオブファイア) でかろうじて死んでない状態なんじゃオラー!と思いつつも一旦ここでウェーブが鎮まっていく気配を感じた私は通常の足取りに戻り、次なる聖地・改札内トイレを目指す。
が、小康状態でたどり着いた改札内トイレも、本日も満員御礼、チンチンジャラジャラチンチンジャラジャラでございます。個人的には今チンチンには用事がなくてコーモンの方から激しい突き上げを食らっているわけでありますが、皆さんそんなことは知ったこっちゃない。
しょうがない&もう少しはガマンできそうな感じになったので、ホームへ行きとりあえず電車に乗る。
が、秋葉原に付いた時点でまた「降りるしかない、このビッグウェーブでは」が来てしまい、フルフルしつつ下車。
そしてフードコーナー横のトイレへ駆け込むも、Oh、My、God、神はこの世にいないのか、本日秋葉原駅も満員御礼となっております。
このあたりでもう限界突破しており、必死で自分に「いやいやこんなの余裕。いやいやこんなの余裕。漏らすわけないじゃんww」と言い聞かせ、顔をブルーマンのようにさせつつ改札を飛び出し (ウンコは飛び出さず) 一目散にアトレへ!
アトレ2階、男性用トイレ発見!見敵必殺!見敵必殺!目標は前方3m!
まずはまたユニバーサルトイレが視界に入りますが、オーシット (クソだけに)、埋まってやがる!
そして!俺の前にもう一人トイレへ向かう男子がいるんですが!その背中を追いかけつつトイレへ入るとこれは奇跡!これは奇跡!
個室のドアが一つ空いているのが見えます!!!! 「会いたかった」とはまさにこのこと、アイラブユー便座今ホーミタイの心境で前進しますとこれは一体フリーメーソンの陰謀でしょうか、前方男子がするりするりとその個室へ吸い込まれていくではありませんか!!!!
相席で!すいません相席でーーーーー!!!!と叫びたい気持ちをグッとこらえ (あと括約筋もグッと締め) トイレ内を見回すも、他に個室は空いてございません。根性値も残り2くらいの感じで30秒ほど待っても、誰も出る気配もない!!
そして、ついに、THE TIME HAS COME。根性値が0になりました。終わりの始まり。グラウンド・ゼロ。
ワーニン!ワーニン!括約筋限界突破、目標は分散系懸濁液、3秒後に欲界に出現!!!!
分かるもんですね、あ、これ以上はムリなんだなっていう瞬間。高まる内圧により括約筋が「あっすんませんおれもうムリっすーあがりますーあとよろしくー!」って押し広げられてく瞬間てのが。
刹那、「穴なのだから指で塞げばどうにかなるのでは?」という閃きがニューロンを駆け巡り、0.2秒後には体が動いてズボンの中へ腕を突っ込むも、too late、地獄の門に指を差し込む前に結界は解き放たれ、押し寄せる波。あふれるパトス。ほとばしる36度の茶褐色。
しかし指栓は間に合わなかったが手は届いた、瞬時にフォーメーションを変え、手の平で受け皿を作って魑魅魍魎どもの奔流をせき止める!あったか~い!!!
この間わずか0.5秒。一瞬の硬直の後、もうどうしていいかわかんないんでさっきのユニバーサルトイレの方へヨロリと数歩移動すると、Oh、どうしてあなたたちは私の手のスキマからこぼれていってしまうの私の分身たち。
と、ここでようやくユニバーサルトイレのドアが開き、サラリーマンご登場。
このとき俺はおそらく死んだような顔をしていたものと思いますが、こちらを一瞥して特に何かに気付いた風もなくそのまま立ち去ってゆきました。セーフ。ギリギリセーフ。出ちゃってるけどばれてないからセーフ!(入れてないから浮気じゃないみたいな苦しいロジック)
で、まあ、既に事件は起きてしまった。起きてしまったのです。あとはもう、たんたんと処理をするしかございません。
ユニバーサルトイレにゾンビの動きで入り (右手はケツの濁流をせき止めたまま)、ロックし、とりあえず左手でズボンをどうにか脱いで残りのパトスたちを解放し、純白の便座へ送り届け。
被害報告:パンツ全損、ズボン半壊、ベルトかすり傷、右腕タールまみれ。他、カバン等に若干の飛沫あり。(スーツじゃない業種なのでそこだけ助かりました)
もうね、漏らしちまったらあとは処理するだけです。
下全部脱いで、ユニバーサルトイレにあるあれなんつうんですか洗面所のボウルがデカいみたいなやつ、あれでパンツもズボンも靴下も丸洗い。
あと、ケツも当然○まみれだったので、これも丸洗い。(イチイチ拭いてられる量ではなかった)
会社に「すんません午前休みます」っつって連絡しつつ、便座についちゃったのやら床にこぼれてしまったのやら色々掃除して、およそ20フンくらいかけて各方面をキレイにし、限界まで絞ったパンツとズボンを再び装着!
アレですね、全体に濡れて色が変わってると、意外とわかんないもんですね。股間だけ濡れてたらあからさまに漏らしちゃってる感全開ですが、全部が濡れてりゃ、もとからこういう色、みたいに見えるもの。
で。なんとか外に出られるレベルに回復したんで、そのままアトレのユニクロ行ってパンツとズボンを購入 (無論状況が状況なんで試着はしてませんよ念のため!)、冷たいズボンと微妙に臭いケツのままで秋葉原を闊歩、手頃なマンガ喫茶へ入って泣きながらシャワーを浴びて着替えましたとさ。
(念のためシャワールームでもう一度パンツ類を石鹸で洗濯しました。)
そのあとはカップラーメン食って昼寝して午後出社をキメました。
いやあ、秋葉原のど真ん中でゲリ漏らしても、意外とどうにかなるもんですね!
追伸:アトレの清掃担当の方、可能な限りキレイにはしたんですが、トイレ汚しちゃってすみませんでした。でもおかげで助かりました。アトレのトイレ万歳!
追伸2:ちなみに当方34歳二児の父です。34歳だろうが人の親だろうがなぁ、漏らすときは漏らすんだよ!! (フツウあんま漏らさないです)
僕と同じ背丈で、同じ年で、違う町に住んでるけど同じ駅で家に帰るから、帰り道はよく一緒になりました。
卒業式の時に第二ボタンと抱き合わせに告白されて、時機も時機なのでオッケーして抱きしめてキスしちゃったそうです。
で、僕もそのことは聞いているからそれなりに話をしたりされたりする関係で、打ち解けてました。
でも、僕は彼女が好きでした。
僕は首都圏にある国立大学に進学して、彼女は地方の国立大学に進学しました。
しばらくは会えなくなるな、と、もしかしたら、もう縁が切れちゃうかもな、と、いろいろ考えて、悩みに悩んで、
で、告白したら、ふられました。
当然ですよね。二股を求めるなんて、失礼にも程があると思います。最低です。人外です。死ぬべきです。
大学に進学してからというもの、すっかり燃え尽き症候群となった僕は大して学業にもサークルにもバイトにも打ち込めず、成績は真ん中よりかなり下、サークルも幹部にならず、バイトも惰性で続ける有様、人生を不満喫していたのです。
それを受けてかどうか、就職活動も力が入らず、あまり労働環境のよいとはいえない地元の中小企業に内定が決まるやすぐに辞めてしまいました。
ぶちスライムをブーメランで刈り取るかの勢いで大企業に次々に内定する友人を見ておめでとうとは言うものの、大してコンプレックスも湧かず、でももったいなかったかな、と思うこともあり、もやもやぁっとした感情もありました。
で、地元に帰るかどうかというところで同窓会のおさそいが届いたのですね。
なつかしいなあ、みんなどうしてるのかなあ、と思う刹那、さっそくメールで返事を電信したわけです。
来てない人もそれなりにいたけれど、まあ半分以上は参加していて、そこに彼女の姿もあったわけです。
で、再会の思いを交歓したのですけれど、なんと彼女、彼氏とは別れたというではありませんか。
もうこの時点でぼくは自己主張してしまったのですが、それを隠しながらもいろいろ話をして、その場はおひらきになりました。
二次会に行く人は二次会へ、僕は家路につくのですが、彼女がついてきました。
なんだかいい気分だし、ぼくも冷めていないので、えいやっといちゃついてみたら、それやっといちゃつきかえされたので、もうここしかあるまいと、キスをしたらアルコール臭くて顔がムニェってなって、それを見た彼女が微笑んで、そのままホテルに行って昇華しました。人生の極相です。ぼくしあわせ。
という半年前の話があったわけで、今この増田を書いているのですが、彼女の浪費癖で家計がストレステストです。でも諦めちゃだめだよね。
山際にだいだらぼっちのような入道雲が沸いていて、それが流れてきたのだった。
バタ、バタ、バタ。数粒の斥候が、乾いた大地に降り注ぐ。
パタ、パタ、パタタ。薄暗くなった空に、落雷もどんどん近づいてくる。
パタタ、パタ、パタタ。どこからともなく雨のにおいが立ち込め始めた。
一転して一粒も雨が降らなくなった曇天の下を、冷たい吹き降ろしの風が通り抜けていく。
ああ、いけないいけない。大変よろしくない。不穏な気配に、いそいそと用意にとりかかり、間もなくしてからだった。
衝撃で家財が細かな音を立てる。大きな柱や梁などは、みしりみしりと小さく軋んで、まるで家全体が震え上がったような錯覚にとらわれる。
急いで洗濯物を取り込んだ軒先から恐る恐る外の様子を伺ってみると、遠く山の向こう側から、いよいよ本隊が攻めこんでくるところだった。
上空から長く垂れ下がった篠突くカーテンが、ゆらゆらと風に煽られながら、破竹の勢いで迫ってくる。
やっと来た。そう認識するが早かったか打たれたが早かったか、大粒の雨粒群は瞬く間に辺りを覆い尽くすと、空を切りありとあらゆる物々を打ち鳴らし始めた。
さながら滝のような降り様である。空気は刹那に潤いを満たし、庭先はたちまち浅い海へと変貌していく。屋根に連なる雨樋からは濁濁と水が溢れ始める始末だ。
一瞬のうちに、山間の古民家は荒波に揉まれる船舶の如き状態に陥ってしまった。
冷たい風はびゅうびゅうと吹き荒び、屋根を持ち上げ雨戸を叩いては、僅かな隙間からうなり声を上げて入り込んでくる。
駆け抜ける紫雷は、どうにも虫の居所が悪いらしい。閃光を迸らせては癇癪を爆発させたかのような怒号を響かせ、ビリビリと辺りを振動させている。
予想外に激しい夕立だった。一人住まいであるために戸締りにあちこち走りまわらなければならなかった私は、すべての戸をきっちし閉め終えたことを確認してから、再び縁側に戻った。
閉じた雨戸をそっと開く。勢いよく吹きこんできた風雨に顔をしかめながらも、荒れ狂う灰色の海原を見上げてみる。
ふと、どうしていつも猛々しい様子に見惚れてしまうのだろうかと不思議に思った。
煽られて大きくしなった杉の木や、ころころと方向を変える雨粒、思い出したように瞬いては轟音を響かせる紫雷などから、どうしてこんなにも目が離せなくなってしまうのだろう。
ドキドキともワクワクとも違う静かな興奮が、泉のように噴きだしてこんこんと滲み出してくるのである。陶酔と微かな狂気。焚き火を見ていると似たような感覚に陥ることがあるように思う。
圧倒されるだけじゃなく、呑み込まれそうになってしまうのだ。呑み込まれて、夕立や海と、水と、一緒になってしまえる気さえするくらいだ。
それは、生物が皆、水に抱かれて産まれてきたからなのだろうか。身体が細胞が遺伝子が、遠い太古の記憶を伝えているからなのだろうか。
あるいは私という生命の半分以上が水によって生成されているからなのかもしれない。夕立や海原には同化するために、炎のゆらめきには霧散するために、惹きつけられてしまうのかもしれない。
開けた雨戸の隙間から、雨は容赦なく降りかかってくる。世界は最早、水一色に染まっている。天も地も、二つをつなぐ空さえも雨が満たし、むっとするほど濃密なにおいで満ち溢れかけている。
深く冷たい深層を流れていたにおいだ。ぐるりぐるりと地球をめぐって、こうして再び空と海との循環を繰り返している。
生命の血液として。あるいは生命そのものとして。延々と続く循環を繰り返し続けている、そういうもののにおい。
ぱしゃりと庭先の浅瀬で何かが撥ねた音が聞こえた。見れば、無数の波紋に下に、小さな魚影がちらりちらりと見え隠れしている。
分厚い雲の向こう側では鯨が尾びれを打ち鳴らしているようだ。轟音に誘われて、何百何万ものものどもが嘶き、咆哮を上げ、囀りながら、威風堂々たる行進を続けている。
生命として廻るために。
山間の集落には、いよいよ潮のにおいが満ち始めている。
人間にとって一番不幸せなことって何なんだろう。もっと身近なところで考えて見れば、自分にとって一番不幸なことって何なんだろう。わかんない。
お金が無いことなんだろうか。家族別れてしまうことなんだろうか。社会から切り離されることなのか。無残な殺され方を迎えることなのか。
人の幸不幸って、結局のところ後出しジャンケンみたいなもので、結果としてしか現れないものなんだろうな。
だから幸せな未来だとか将来なんてものはあやうい。いついかなる時も、判断ができるのは過去と現在のことだけであり、それが可能な主体は今ここにしかいやしない。
要は全部経験してみないことには一番なんて決められないわけで、もっと言えば一つ一つの出来事を公平に振り返ることなどできるはずもなく、厳密な一番を決めることは不可能なわけで。
判断する主体が今ここにしかいない事実を、ある人は希望というのだろうし、またある人は絶望というのかもしれない。
不確定な可能性ばかりが広がっているのだし。
なんかこういうことを思うと、自分の中の不安とか希望とか、不幸せだとか幸せだとかいうことが全部馬鹿馬鹿しくなってくる。
同じように、誰かを疎んだり僻んだり妬んだりすることも、見下したり侮ったり馬鹿にすることもどうでもいいような気がする。
いや、そんなことが言いたいわけじゃなくて。だって、現実問題他者や自分を倦んだり好意的に思うことはあるのだし。
まあなんというか、今この場所でそれなりに満たされていれば十分なんじゃないかなと思うわけで。
なんかおっさんみたいな考え方をするようになってしまったなあ。こういう態度を、日和見って言うのかしらん。刹那主義というのかしらん。
人を押しのけるだけのエネルギーとか、端から持っちゃいなかったんだろうなって思うなあ。
さておき、こんだけ短いのに、上段中段下段と主題が跳ね飛び回っててちょっとびっくりする。自分にびっくり。自分でびっくり。驚愕しました。それほどでもないけど。
おわる。
ガンダム新作が発表されて、「ガンダムじゃない」感をひしひしと感じた。
今後の発表や本放送で感想が大いに変わることはありえるが、ひとまず現時点では、ガンダムである必要性を全く感じられない。
なぜか。
等身の低い丸っこいキャラデザ、三世代に渡るストーリー展開、オモチャにしか見えないガンダムのデザイン。
全てレベルファイブの作品で見たことがある、というかもうぶっちゃけこれ、イナズマイレブンベースにダンボール戦機のメカ要素取り込んだだけだろ!としか思えない。
全てにおいて突っ込みどころ満載だが、個人的には、三世代ネタを出してきたところが最も気になった。
そもそもガンダムの主人公は、親子、というか家族の概念が希薄な人が多い。
アムロやカミーユは親が仕事優先で放置されがちな少年時代だし、ロランやヒイロは出自不明。
ガロードとシンは戦災孤児、親を殺して自発的に孤児になった刹那というガンダム。
キラには親がいるが、全くストーリーには絡んでこない、かなりの透明度。ウッソのところは…他が濃すぎて……
とりあえず、ガンダムの主人公はそのほとんどが、帰るべき家・家族を持たない「孤独な少年」である。
ただ、自分の知る限り唯一、孤独な少年じゃない主人公のガンダムがある。
「Gガンダム」だ。
「ガンダムファンの高年齢化問題」と「小学生層の取り込み」を実現させるために、設定を大きく変え、「機動戦士」ですらなくなったガンダム。
ガンダムAGEは、Gガンで挑戦し、一定の効果を得たこの課題に、再挑戦する意思が見える。
そして今のタイミングでこの課題に挑戦するにあたって、こども向けのゲームタイトルで躍進するレベルファイブが関わるのは、ある意味当然のことのようにも思える。
そこまではよかった。
ガンダムに関わっている間、それを捨てて「ガンダムの」ストーリー作家になれるか?
多分無理、絶対無理。
いくら「これまでのファンも大事にします」と言ったところで、既にゲーム発売も予定されている。
そんな状況で、ゲームの都合でストーリーを変えることができる立ち位置に社長自らが腰を据えるわけだ。
信用するのは難しい。
何せ日野社長って、会社の経営方針的に、ドラクエ、二ノ国、そして今回のガンダムと、ブランド力への執着心が半端ない。
そこにきてガンダムAGEは、イナズマイレブンでやり尽くした感が否めない「三世代」ネタを主軸に置くときた。
つまり、このガンダムが成功すれば、日野社長は「家族ネタに定評のある構成作家」の地位を確立し、それはそのままレベルファイブのブランド力になるのだろう、ということ。
それを前提とすると、先日の発表会は、
「新作ガンダムは、2011年秋までのレベルファイブ作品紹介プレゼン動画です!1年かけて放映するからよろしく!」
…と言っているようにしか見えなくなってくるので、今非常に困っている。
最近のガンダムは文句言いながらもそれ自体も結構楽しめてたけど、今回ばかりは不安100%で楽しめる自信が全くない。
誰か一番いい論破を頼む。切実に。
こんなくだらないことでガンダムを嫌いになりたくない。
特にチームKが好きだ。
去年だから、チームの発足からはかなり時間が経っている。AKBといえば劇場だぐらいの知識はあったので、とりあえずYoutubeやニコニコあたりでライブ映像を見まくった。CDやDVDを買うにしても、曲が多すぎてどれから手を付けていいかさっぱり分からなかったからだ。
で、「生歌」とタグがついている動画を見て、ああやっぱこれだけ踊ってたら生歌じゃないよな、と思って、生歌を聴いてみたいと思うようになった。
普段はあるバンド(全員男)を聴いていてライブに行くのが楽しみ、ライブのアレンジが楽しみでしょうがない、という感じなので、録音音源=その場のアレンジがなくて残念だと思ったのだ。ライブならやっぱ、一言のかけ声みたいなやつでもいいからその場で出してる声を聴きたいから。
Youtubeで生歌で探した結果、右におすすめとか関連動画って出るじゃん?あれにモーニング娘。が出てきたのだ。今現在のモーニング娘。
すごい!と思った。特に高橋愛と田中れいな。ファンが作った動画だったしコメントもファンが書いてたから、それ読んでテンション上がって余計すげえな!と思った。
AKBは生歌あんまりない、ということを知って残念だった。ものすごくものすごく残念だった。
俺はライブ=そこで歌ってる、だから、ダンスしてる姿も見たいけど、やっぱり自分がいる場所で同じ瞬間に、その場で出してる声が聴きたいから。
酷なことを求めてるなとは思う。
スケジュールは詰めまくりで、あれだけ人数がいて、あれだけ踊りまくって、なおかつうまく歌えというのは、惨いと言ってもいいと思う。なんか、ごめんなと思う。
AKBとモー娘。の動画をランダムに見ながら、色んな思いがわき上がってきた。アイドルに触れるのはほぼ初めてなので、ちょっと距離を置いた視点だったかもしれないけど、まだ十代〜二十代半ばぐらいまでのこの子達の将来が幸せであってほしい、というようなものに総括される思いだった。
AKBにはある種の痛ましさがある。今しかないのだ、今だけなのだというような、女性アイドルなら仕方のない刹那感。そして背後の操作が非常にうまい。楽屋裏も込みで売っている、そしてそれを皆暗黙の了解で呑んで今を追いかけている。
モー娘。にはそれがあまり感じられない。戦略上それを見せないということかもしれないが、タフでストレートなパフォーマンスだ。その場で見せられるもののみで勝負しているように見える。
また、モー娘。にはやはり「世間一般の目線は全盛期は過去であった」がつきまとう。あまりそこに悲しみがないのが不思議だが、世間の目やメディアの目はそうだろう。斜陽ながらも戦う王者だ。いや本当に、シングル曲のタイトルとかはマジでかわいそうになるぐらい酷いけど、ライブの彼女らは本当にかっこいい。乱れることもちょっと外すこともある、生の声の力はすごい。
AKBは今もまだ「これから」だ。後発が先発よりも優れているのは常に大前提(だと個人的には思っている)なので、もっと伸してくるだろう。まだ彼女らは挑戦者だ。展開も先発の成功/失敗に学んでがんがん行ける。バラエティや冠番組で見る彼女らは、側面をもっと見たい知りたいと好奇心をかきたてるし。
AKB vs モー娘。のバトルを見られたらすごくいいんだけどなと思っている。
楽曲面だけを見ればAKBがかなり勝っていると思うので、モー娘。のプロデュースをもっと頑張ってほしい、その上でアイドルの二強状態をものすごく見たい。
モー娘。というかハロプロ全体をざっと見ていて思ったが、本当に、本当に、残念なのである。つんくもうちょい考えろ。なぜだ、なぜお前は同じ男なのに分からない?
直接的すぎるんだ、モー娘。の歌は。いくらメロディーラインが美しくてもタイトルや歌詞で萎える。ど真ん中っていうのとそのままっていうのは違うんだよ…そしてなぜかやや古い。古典や青春の輝きぐらいまで古くなくて、絶妙に「思い出すと恥ずかしい」レベルの古さをなぜかずっと保っている。いくつなんだよお前は。
秋元康はそのあたりめちゃくちゃにうまい。ストレートなテーマを、その単語を使わずに思わせる、そういうのが本当にうまい。青春時代を鬱屈して過ごしました、かわいい女の子に憧れてしょうがなかったけどそれだけでした、そういう思いをワンクッション置いてぶち当てましたみたいな、まあ共感するのだ。有り体に言うと。
それが意図的なものだったとしても、気持ちよく乗っかってしまえるなら関係ないし。曲に乗らないでも詩として成り立っているというか。
俺は勝ち負けを笑いたいんじゃない。弱肉強食の世界だって言うのは分かるけど、ファン同士でワナに引っ掛けてライバルのアイドルを落とすようなのは嫌だ。
いい曲が聴きたい。アイドルにしか歌えないいい曲っていうのは確実にあるから、アイドルが歌うその姿に見惚れたい。歌に入れ込みたい。プロデューサーにはこっちの心をくすぐってほしいし、その歌にどっぷりハマらせてほしい。仕事の疲れいやしたい。
いつまで彼女達のことを、このアイドルグループの中で見られるのかなと思うと、涙が出そうになることがある。女性アイドルは後から後から幼い後釜が出てきて、活躍できる期間は大体短くて、そのことを思うと悲しくて仕方がない。
http://www.twitlonger.com/show/7k0gjq
ブコメでは肯定的に受け取るひと、否定的に受け取るひとに分かれているが、
2つの視点の違いは
と私は受け取った。
私の場合は、どっちの意見もそれぞれ理解できるが、否定派に分があると考える
おもちゃ屋のストーリーは販売側と顧客側、つまり商行為が発生しているので商法において関係が定義されている。その関係がありつつ、特別な事例(感動話のクレーム)によって販売側の組織の一人の独断らしき判断によって達成された物語である。個人同士の感動を表した物語であるが、そこには企業や組織、果ては社会に対する未来への道が閉ざされた、一時避難的サービスを行っただけの話である。
何が言いたいかというと、よく耳にする感動系の話として
・リッツカールトンの従業員はいくらいくらまでの自由に使える経費を与えられていて、顧客の誕生日に特別な計らいを行って感動を与えた。
・ディズニーリゾートで、お子様を亡くした夫婦が、亡くなったお子様の食事を注文し、店員もそれをサポートして感動を与えた。
などある。
これらと、今回のおもちゃ屋のストーリーとの違いは「組織の仕組み」かどうか?なのだ。
「組織の仕組み」は一時的なサービスではなく戦略的に仕組まれたものなので、継続と安定が望めるのである。つまり感動が未来へ繋がるのだ。
一方、今回のおもちゃ屋のストーリーは、いち担当者が機転を利かせたものにすぎない。なので刹那主義的な感動にしかならない。
いやらしい書き方をすれば、このおもちゃ屋のストーリーには、裏で泣き寝入りした家族(子供)もいるだろうという事が見えてしまっている。不良品を購入させてしまった顧客への不公平が生じているのだ。ひとりの担当者の浪花節は、他の困っている顧客へのサービスにつながっているのか?が表現されいていないことが「違和感」に繋がる。
この商行為の販売側と顧客側という枠組みで、個人の浪花節を語ることが、このストーリーの問題点なのであり、この物語の構造的な矛盾が違和感を生んでいるのだ。
少なくとも、組織の浪花節なら、すっきりしたかもしれない。もしくは商行為という関係にない家族内部での感動の話だったなら、すっきりしたかもしれない。
テレビの中から、夢を見せたり、語ったり、そういうことやる人が居なくなったよね。
『大衆』の立場では、そういうものを信じられない世の中になったと思う。
だからなのか、今の20代より下の子たちは現実主義的で刹那主義的。その場が楽しければいい。
で、テレビの中の世界とか政治家とかの「スゴイ人たち」は、夢を見せるのが一番の仕事なのに、
不景気やら業界規模の縮小やらで、影響力を持ちにくい、理想主義者や若者はどんどん切り捨てられた。
利己的で扇動力のある人間、上手く立ち回れる人間、彼らに扱いやすい人間ばかりが生き残る。
この時代、「プロ」を志向したり、業界経験のある人は知っていると思うけど、
今から叩き上げで入ろうとしても、既にポジションを確立した一部の人間以外は搾取される宿命だ。
働けど楽にならざりき。
神様なんて信じない、そういう人は多い。
神を否定する時、頭の中に神を浮かべて、その存在を否定するわけだけれど、その刹那、ほんの一瞬、自分の中に、神が存在することになる。
と、するのなら、あなたが神を信じようがいまいが、神は、あなたや私の中にいるわけだ。
「否定する事により神が存在する」という、奇妙な状態でも、神を否定して心が落ち着くのなら、神を罵るなり嫌うなりしてもいいと、私は思う。
ただ、仏教には「ブッダに会ったらブッダを殺せ」という言葉があって、仏教に神は出てこないそうだけれど、現代日本を生きようとすると、自分の中に神が出てきたら、殺す事が必要…… な気がする。なんとなくだけど。
とはいえ、「ブッダはともかく、神様って殺せるの? 死ぬの?」という疑問も出てくる。
なので、自分の中に神様が出てきたらスルーする、スルー力を身につけたいと思う。
「『熱狂的な信者』の反対は『熱狂的な無神論者』ではなく、神がいようといまいと気にしない『穏便な皮肉屋』である」
あろうことか… 祈ってしまった…!
何も考えず… 神頼み…
救ってくれ…
オレを助けてくれ… だっ…!
もう自分以外… 頼るものなどない… と
骨身に染みて…
知っていたはずなのにっ…!
伊藤開司
モグラのみなさん。
先を呑まれてぞ見えたりける。見るともなく見ておりますと云うて立ち上りました。
をっと、いけない。
また池田信夫かよ、と書いてあるはてなの上の葉の蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けているのですから、その池田先生が主任教授として、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱って来た。頬や耳には臙脂の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にドス黒く、垢だらけになって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……嗚呼!
この紳士が、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝の学理に照して明らかなり、汝空を翹り土に潜むとも今は遁るゝに道あるまじ、いでや新身の切れ味見せて、逆縁の引導渡し呉れむと陣太刀長やかに抜き放ち、青眼に構へて足法乱さず、切尖するどく詰め寄り来る。虹汀駭き馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔細を問ひ訊すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、涙を流して土の上にひれ伏した気はいである。
三本並んだ太い生木の柱の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが置いてあります。その本物は、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまって、ただ極度に異常な変態性慾が、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いましたが、外は小雨が降っておりました。
かなり高い、白ペンキ塗の標札には、それを聞いて行った。
窓に近く並んでいる急な階段の左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見て驚くまい事か、手ん手に色々なお祝いの物を奪ひ去る無法狼藉のぬるぬるはそれよ。
かなり高い、白ペンキ塗の標札には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、信じて疑わなかったので万事が手遅れになったんだからね。そこいらは……終了。
二人と有之。その病態世の常ならず。或は女人を殺めむと致し、又は女人の新墓に鋤鍬を当つるなぞ、安からぬ事のみ致したる果、相次ぎて生命を早め侍りしばかりにて、さる噂、一際高まりたる折節に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にて彼の絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後この仏壇の奉仕と、此の巻物の披見は、此の家の女人のみを以て仕る可し。
入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子越しに、離家の戸締りを致しますと、この室に物音がします。その『増田解放治療』と名付くる劃時代的な経済学に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事がわかるのです……。
玄関の左右に並んだ硝子戸棚の行列の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしよう……ところで無論ぬるぬるは気質が温柔しいままに結局、唯々としていらっしゃるのでビックリして、自分の頭の復旧を命じたのは今朝の三時から四時の間だと、池田さんが私の部屋の前まで来まして、当大学の名前を全世界の学界に誇るに足るものが尠くありませぬ。
しかし私がこの教室の仕事を兼任致しているようで、まことに変なアンバイで御座いましたそうで御座いますが、福岡の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た故、二人が表に出て来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになった扉の前で、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、一個の驚くべき惨劇を演出しました。
二人共奇想天外式の精神病に罹っていたかも知れませぬ……では……兄さんと云ったきりで、どこかへ逃げて下さらないのです……つまりこの原稿の中に、生汗をハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部を恐る恐る見廻しはじめた。それからダシヌケに私の頭が要る。些くとも今までの話の怪事件というのはその時分、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜サラダの皿と、一本のフォークと、栓をした。
虹の松原に上る。銀波、銀砂に列なる千古の名松は、清光の裡に厚く労ひて家人となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那ぞ。如何に如何にと詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪め眼血走り、白汗を流して喘ぐばかりなりしが、やうやうに堪へたりと云ふ可し。さは云へ折角の御芳志ならば、今些しばかり彼方の筑前領まで御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、天地に照してドン底まで理解すると同時に、自分の全部を見ても、どこの何者かという事がヤット解ったからであった。
ああ漢文……しかも白文じゃありません……又出て来た極彩色の密画を、ただ、真に迫った名画と来ていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……あの石切場の石が屏風のように強直した全身に、生汗をポタポタと滴らしながら鼻眼鏡をかけて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとしました。
絵巻物に写し止め、電光朝露の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬で殺されてお終いになった……が……又、ハッと正気づかれたようで……硝子雨戸の薄ら明りを便りにして持って御座ったのだ。それに増田のぬるぬるの懐に、六美女の手を曳きて立ち去らむとする事度々に及び候ては下賤乞食に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれている色情狂か何かで、誰を見ておいでになります。
すなわち増田のぬるぬるは蝋燭の光りを振り返った。……が……これが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声が弱って来た人間が同じ暗黒状態の経過が、極度の短かさで繰返されている気持を感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのだ。
それからダシヌケに私の笑い力が尽きたかして、やがて又方向を換えて申しますれば、当精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に収容されている。その大卓子の燃え上るような緑色を見詰めていたんだよ。
凡夫の妄執を晴らすは念仏に若くは無し南無阿弥陀南無阿弥陀仏南無阿弥陀南無阿弥陀仏。
ポッ。
空の光りが、程近い浪の音と一所に、自分自身の脳髄を、生きた標本として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭で、私の過去の御経歴を思い出して頂くように、グズグズと縮こまって、チョコナンとした折目が附いている上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために空間に浮いているように思われて来た科学的な、同時に心細くなったような気持ちになりつつ、机の上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛み漂い、唇も稍黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、増田のぬるぬるの心理の奥底に凝視しつつ…………。
紙を貼付けられて並んでいる戸棚に近付いて腰を屈めた。耳に口を当てて二言三言云いながら、土蔵の戸前が開きますと、すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の耳に這入った。そうすると、それが、その中でも又、この紅い服は、どこへか消え失せてしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟の前に居る池田博士も、何かしらエタイのわからない人間がここに一人居る。
かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演べけるやうは吾、法力によつて、呉家の血統の絶えなむとする事度々に及び候ては、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又は縊れて死するなぞ、狼籍の限りを尽して身の置き処無きまゝに、此程窃かに御帰国ありし趣に候。
鼻糞で固めた観音像、硝子箱入り。
そのうち文科の奴に研究させているではないか。自分の描いた死美人の第一で御座いまして……。竹片で赤煉瓦に彫刻した聖母像。最終の一行が、やはり何とも申上げかねますので……。増田のぬるぬるが充分な研究を遂げている事である。
大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚。眼が悪いのだろうと思って……。
大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚。玄関に出た。
相手は一人ぞ。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではありますが、私の部屋の前まで来ると、時恰かも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖「トテモ素敵ですね」
第2回につづく
昨日、京都の恵文社一乗寺店に行ってきた。ネットでは話題になり雑誌等にも多く取り上げられ下町の一乗寺という立地なのにうっそうと流行っている。昨日行った時も人ゴミで店内は覆われていた。なぜAmazonなどのネット書店が席巻する現代でリアル書店が今尚健在しているのか。そんな疑問が気になって京都まで足を運んだというわけなのだが、結論を先にいうと、おそらく店内に並べる本のチョイスが斬新な点にあると思う。決して、店内の雰囲気がいいとか、雑貨が置いてあるとか、本の並べ方がいいとか、そういったことではないと感じた。
振り返ってみよう。現代の本屋さんとはどんなのがあるか。大きく分けて二つあって、一つはランキング形式を重視した1から100まで網羅している大型チェーンの書店。それともう一つは、対照的に、とある商店街の一角にひっそりとある「なんで潰れないの」的な亭主一人の本屋さん。もしくは、駅前の売れ筋商品だけを置いた小書店。・・・以上二つに分かれるわけだが、そもそも個人的には紙媒体の文化というのは、後数十年でマイノリティになると考えているので、前者はアマゾンと置き換わり、後者は間違いなく潰れると思う。
その点を少し掘り下げてから、恵文社の魅力にシフトしたいので少し寄り道をして欲しい。
なぜ、リアル本屋さんが今の経営だと淘汰するかというと、単純にデジタルネイティブ。つまり物心ついた時から活字はデジタルで読むものと教育されてくる子供たちが今後増えるからで、現在のアナログ世代とごっそり入れ替わった時には本屋さんの存在はマイノリティになるだろうと。それはこんな根拠があるからで、まだ日本語版のキンドルやiPadなどの電子書籍母体は発売されていないが、他の先進国ではもう地に根付いているといっていい。なんでかというと、公的機関、つまりは教科書がデジタル化に大いに役立っているからなのだ。アメリカの教科書というのは日本と違って、独学ができるように膨大の情報が詰め込まれており、分厚い専門書籍と化している。そんな分厚いものを何冊ももって移動となると、それだけで疲れてしまう。それを補ってくれるのが電子化による、データを持ち歩く方法で、子供の頃からそれが当たり前となると、どうなるか。先ほども言った、活字はデジタル画面で読むものという常識が固定されるわけで、それは必然的に、アマゾンでデータを購入してデジタル画面で読むという行為になり、リアル本屋さんというのが、今で言う、レコード屋さん状態になるだろうと推測せざる得ない。
さて、余談が長くなったが本題に入ろう。
そんな絶望的な本屋さん市場なのだが、それでも希望の光はあって、その光を感じさせたのが今日の主役の恵文社というわけだ。簡単に説明すると、恵文社というのは大型書店の後ろの方に眠っている良書を一般客に触れさせている点にある。人は皆、食わず嫌い性質が備わっており、変化を嫌い、予測できない事、物はさける行動をとる。それは本屋さんでも適応され、好きなジャンル本コーナーしか行かない。例え興味本位で哲学とか医療とかの書棚にいったとしてもちんぷんかんぷんで足を止める時間というのは刹那だろう。その点、恵文社はそれをごちゃまぜにしている。東京では最近オープンした松丸本舗がそれにあたるだろうか。漫画や古書を隣に並べるなどして、お客に刺激を与え、ハードルを下げ、好奇心、自分探しの森へ引き込ませる。それが最大の要因であり、恵文社が好まれる理由にあると思う。
しかしだ!! それでも甘いと私は思っている。もっと振り切れる必要があるのではと考える。
確かに、恵文社や松丸本舗という質に拘り一般人の琴線に触れるチョイスをする本屋さんというのは魅力的であり、集客力も案外ある。しかし、それが購買に繋がるというと、やや懐疑的な部分もある。絶対数が増加したからある程度は増えただけであって、どうもそういった第三のリアル書店というのは、雑貨屋さん、つまりは見て楽しむ本屋さん、ファッション的書店になっているのではないかと思う。
はっきり言って、今のやり方ではネットでも十分にできる。ごちゃまぜ方法的なやり方なんかだとネットの方が有利ではないか、立ち読みも楽勝にできるし、棚の入れ替えもすばやく展開できる。恵文社ネット版は安易に作成できるのだから、やはり今の経営方針ではまだまだだと個人的には考えている。恵文社にいるときに自分ならどうするかを思考していたので、それを少し紹介すると、ネットでできなくてリアルでしか通用しないもの。それはなんなのか。それはこんな事ではないか。
本を選択してくれるサービス。
本を購入するというのは、大きく分けて二通りあって、目的がはっきりしている買い方と紹介による買い方。反論を防ぐ為におさえておくと、ぶらっと立ち寄った本屋さんでふと手に取った本をペラペラと立ち読みし、なんとなく気に入って購入したとか、ジャケ買いしたとかは、前者に含まれる。それはあくまでも自分好みのものを手にとって見たからで、目的が決まっていると言っていいと思う。それで重要なのが、後者の紹介による購買で、書評をみてとか、本屋さんのPOPを見てとか、尊敬する人から進められたとか、誰かに決めてもらって本を買うという方法。わたしはこれがほとんどを占めているが、あと、好きな著者つながりとか。
要するに、数多ある書籍を目の前に置かれても、選択できないのが人間で、それは時代の流れて確かに収斂されてはきている。この恵文社のように、ある程度本屋さん側にチョイスしてもらって、その中からお客さんがまた選択すると。ただ残念ながら、わたしはそれでも多いと思っている。やはりある程度絞ってもらっても、本選びの時は不安なものは不安だし、お金のある人は別だが、数千円を投資するわけだから、何かにすがりたいのが世の末だろう。
そこでだ。もっともっと絞ってみてはと思ったわけで、想像していただきたい。とある本屋さんがあったとする。そこには、10冊しか本棚に並んでおらず、本と本の間のスペースは2,3冊分はあいており、そこには亭主が厳選した書籍がたっぷりの書評と並べて置いてある。まさに、セレクト書店というべきか、ポイントなのはそこでしか、その選択のサービスは受けられない点にある。有名人なら一人で経営しても問題ないだろう。例えば、書評で有名な弾さんなんかがセレクト書店をオープンすればそれなりに流行ると思うし、もちろんネットでは同じサービスは止める必要がある。しかし、知名度がない人や法人がやるとなれば、コツコツとやるしかない。
仮に恵文社程度の規模で私がプロディースするとすれば、ネットで書籍を沢山読む人を集めて書籍を選んでもらい書評を書いてもらう。そしてそれを店の本棚にならべる。ポイントは一人につき書棚一つ。それと個性的でバイアスのある書評家を選ぶ必要がある。となるとだ、かなり特殊な本屋さんになるのは自明だろう。無造作に置いてある本をお客さんが決めて買うではなく、数冊に絞ってやり本をお客が不安満載で博打買いするのではなく、この書評コメントに感化されたから買おうと、そしてその書評を書いた人が魅力的に感じてきて、その人が選ぶ本なら自分と結構趣味が合うので買おうと、最終的にはその選ぶ人のコアファンになればいうことなしだ。なぜなら、好きな人のお奨めする本は、本を購入するという行為に直結するからだ。
ってな感じで、本を選ぶのではなく、人が選ぶ情報を買うにシフトする必要があると考え、それと重要なのが、ネットではその情報を流さないこと。これさえ徹底すればリアル本屋さんも当分はやっていけるのではないだろうかと思う。本の種類を抑えるとコストもさがるし。ただビジネスとしての初期段階では本屋というビジネスモデルは選ばない方がいい。もしやるとしても、ローカルな趣味経営で止めておいた方がいい。現段階で書店経営している場合は考えるべきだろう。
ttp://blog.livedoor.jp/tori7810/archives/1308182.html
女子文化にはあまりディープに関われずに馬齢を重ねてきてしまったが、一応ひとりのメスとして。女子文化はしゃらくさいものである。そんなこと作る方も 受け取る方も十分わかっているのだ。言葉を返せばしゃらくさくないものは女子の文化たりえない。重厚だの深遠だのというケツの重いものは男や年寄りに遊ば せておけばよい。きゃつらは自分の時間が無限にあると思っているのだから。
女には賞味期限がついている。それはもちろん女性差別なのだが、どんなに怒ったって世間=社会=男は若い女にしか価値を見出さないんだからしょうがな い。女同士は、女の価値が若さだけではないことをよく知っている。明日のあの子は今日のあの子より輝く可能性がある事を理解している。しかし「加齢によっ て増してくる魅力」というのは、女には効果があってもほとんどの男には効果がない。私のように子供の頃から勝負をベタオリしている早熟かつクレバーなブサ イクはそのへんの苦労を引き受けないが、リングに上がり、女の馬鹿な面未熟な面しか見ない見たくないという男と一戦交えるべく拳を構えている女は全員、爆 弾が出てくるセガール映画の如きシブいカウントダウンの毎日を過ごしているのだ。明日は今日より確実に価値が下がっている。それが男から見る女の株価だ。 夢も希望も見えやしない。だから勝負に出ている戦士=スイーツ(笑)は、戦いの傷を癒すため刹那の美=しゃらくさいものをいつくしむのである。軽くてあま くてふわふわさくさくしていて、己と同じくはかない美を掌に乗せ鑑賞したり食ったりするのだ。一方男連中は賞味期限という概念そのものが人生に覆いかぶ さっていないので、10年かけてマッチ棒で姫路城を作ったりしている。
よく言われることだけれど、学校という箱は牢獄に似ている。コンクリートの壁が、リノリウムの廊下が足枷となっていて、仕切られたひとつひとつの教室が、割り振られた各々の机が鉄球と繋がった鎖となっている。閉じ込められた囚人達はなかなかガラスとアルミからなる窓から飛び出していくことができない。
確かに、中には無理やり牢を脱獄していく者もいる。けれどそれらの人物は一様に例外中の例外であって、そもそもが学校という箱の中に納まりきらない、もしくは納まることができなかった異端者ばかりなのだ。大概の生徒はなにが起きているのかも分からないままに鎖に繋がれてしまっている。繋がれていることにも、投獄されていることにも気が付かない幸せ者もたくさんいるけれど、私のように気づいてしまう愚か者もそれ相応に溢れている。
集団は、そこに集団が形成された瞬間から社会性を有すものだ、と私に教えてくれたのは、中学校に通っていた頃の変わり者だった。社会性が存在するということは、すなわちそこにはカーストが生じ、相互の、もしくは一方的な関係が誕生するのだ、と。
なくなって久しいと思っていた牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけていた。彼の名前はなんといったのだろう。表情と、滔々と述べられた数多の発言は強く記憶に残っているというのに、肝心の名前が思い出せなかった。クラスメイトどころか、学校中から、ひいては教師達からも距離を置かれていた彼は、中学二年の秋から学校に来なくなった。
誰もいない教室で、窓際の自らの席に座って頬杖を突く。遠く、どこか他の教室の中で話しているらしい女子生徒の声を微かに耳にしながら、私はぼんやりと、見るともなしにグラウンドに散らばった各部活動の活動を眺め降ろしていた。少し黄色がかった空に、長細い雲が浮かんでいる。先ほどから少しも動いていないようにも見えたし、とても長い距離を流れ滑ってきたようにも見えた。鳥が羽ばたきながら勢いよく姿を消していく。
夕暮れというのは面白い時間だと思う。明確に日付が代わる真夜中のその瞬間よりも、鮮やかに一日の終焉を伝えてくるからだ。
郷愁のような物悲しさ。
厳密に言うのならば、まだ夕暮れと呼ぶには早かったものの、色付きかけた青色の空はひしひしと望郷の念を思い起こさせていた。
それにしても、どうして私は夕暮れ時に切なくなるのだろう。離れてしまった故郷があるわけでもないのだ。私はこの街で生まれ、この街で育ってきた。だから、郷愁を抱くわけも道理もないというのに。
あるいは、幼い頃になにか強烈な出来事を経験したのだろうか。それとも、外部から与えられた『夕暮れは物悲しいものだ』という概念に毒されてしまったのだろうか。もしくは、生物本能として、二重らせん構造の中に、ひとつひとつの塩基の中に太古の昔に経験した物悲しさが記憶されているのかもしれない。
人を含め、万物の生命体は元を辿れば海へと行き着き、稚拙な細胞群へと集約されるのだという。それから現在に至るまでにそれぞれの生物が見た景色を、私は深層心理よりも奥深くに大切に補完しているのかもしれなかった。
何の役にも立たない妄想から意識を引き上げてほっと息を吐くと、少しだけ肩から重石が外されたような気がした。こういったことを考えてしまうのは、間違いなく中学生の頃の彼の影響だった。名前も思い出せない瓶底眼鏡君は、今でも確かに私の影に潜んでいて知らず知らずの内に意思決定を巡る過程の中で暗躍している。
「あなたは私と同じにおいがするよね」
そう、先日陸上部の深海さんに言わせてしまったのも、もしかしたら暗躍する瓶底眼鏡君のせいなのかもしれない。私の意識は数日前の放課後に、鮮やかな朱に染まっていた昇降口へ遡っていく。
「雨は好き?」
いつものように時間を潰して帰ろうとして折りに、靴箱の前で唐突にそう話しかけられた。振り返った私は、綺麗な微笑を湛えた深海さんに見つめられたまま返事をすることができなかった。
「私はね、結構好きなんだよ。雨そのものというよりかは、雨が振っている雰囲気というのが」
眼差しは、あなたはどう、と訊ねてきていた。私は首を傾げ、いまは降っていない雨のことを考え、陰鬱な湿り気を帯びた気配を想像してから、それほどでもないと答えた。
それほどでもない。私は雨にあまり良い思い出がないのだ。
微笑む新海さんは、その微笑を消し去るどころか一層壮艶なものに変化させてからやっぱりと言った。
「やっぱり、あなたと私は同じにおいがするよね」
言葉の意味を尋ねなかったことを、私は後悔するべきなのかもしれない。こうして誰もいない教室でひとり机に腰かけている今に至るまでその真意がまったく分からなかった。たぶん、これからも一片でさえ分からないのだろう。
その後、深海さんはじゃあと手を振って、するりと昇降口から外へ向かっていった。取り残されたのは私だけ。あるいは、私と昇降口に差し込んでいた夕陽だけだった。立ち昇った埃が煌めいていたのが、やけにノスタルジーな気配を含んでいた。昇降口には忘れ去られた物品が纏う物悲しい忘却に溢れていたような気がする。
彼はどこへ行ってしまったのだろう。グラウンドを眺める私に、再び瓶底眼鏡君の顔が浮かんできた。我々は決起しなければならないのだ。拳を高く握り締めていた後姿と一緒に。
視線の先で、陸上部が活動を続けている。ひとりひとりの容姿の違いはここからでは判別できない。みんな似たようなジャージに身を包んでさっきから走り込みを続けている。走っては、隣の人と話しながら歩き帰って来て、再び位置につく。反復練習を続ける集団の中に、きっと深海さんも混ざっている。
ふと集団の中の誰かが立ち止まった。顔は校舎の方を向いている。立ち尽くして、何かを探すように視線が動いているようだった。
そして、私は認識する。その人物が深海なつみであり、彼女が私を見つけて微笑んだことを。
どうして人物が彼女と判明したのか、表情まで見えてしまったのか分からないが、その刹那に私はたくさんのことを理解した。なぜ彼女が私に同じにおいを嗅いだのか、どうして彼の名前が思い出せないのか、彼女がいつも微笑んでいる理由と、夕暮れ時に人が物悲しくなってしまう原因を。理解させられてしまった。
堪らなくなって、私は思いがけず席を立つ。全身が、他の意識に乗り移られたように火照っていた。羞恥、憤怒、悲愴、愛憎――そのどれとも呼ぶことのできない感情が昂ぶって、一度大きく爆ぜてしまっていた。
廊下を、口許を掌で覆いながら早足で過ぎていく。
思えば、昔これと似たような感覚を得たことがあったような気がする。母が柚子を買ってきたときだった。剥くこともせずにかぶりついた柑橘のぶ厚い表皮はとても苦くて、渋くて、痛くて、痺れを伴っていて、とてつもない刺激となって私の口の中を駆け巡ったのだった。
そう、あの刺激だ。いまも私の口の中にはあの時の味が、感覚が広がっている。
視界を滲ませながら、私は一目散に帰らなければならないと考えていた。
ここではないどこかへ、逃げるようにして向かわなければならないと思わないわけにはいかなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20091020134345
「せつな」という言葉を日本語変換しようとすると「切な」「拙な」「刹那」になるわけで、
多分ネーミング的には「刹那」が一番それらしいんだろうけど、
言葉の意味としてはいずれであってもあまりよい会社名とは言えないよね。
元は仏教用語から発生したものすごく小さい単位を言う言葉だと思ったけど。
刹那的とかいうと「一時的」「泡沫的」みたいな言葉がシソーラス的には近いわけで、
株式会社せつなが「株式会社刹那」。セツナプロジェクトが「刹那プロジェクト」だとしたら、
刹那的な会社とか刹那的なプロジェクトって感じに思えてしまって、
ネーミングした人は「せつな」という言葉がどういう意味になるかわかってなくて付けたんじゃないかな、と思った。
昔「コミューンと名の付いた政体は長続きしたことがない」とか「○○企画という会社名の会社は大企業になったことがない」
だから会社名や組織名のセンスは重要って聞いたけど、「せつな」なんて付けちゃうのは会社名としてもプロジェクト名としてもは「うーん…」なかんじ。
しかし現実は、大きな石なんてそうそう見つからないし、たとえ見つけたとしても、持ち上げ壷に収めることが出来ないものだよ…。
夢や希望・志なんてのは、大抵の人においては砕けて消える幻みたいなものだし、大切な人や家族や何やといった人間の関係はそれ自体がほぼ幻想で、大切にしたところで裏切られ消えてしまうので、心の片隅では常に疑っているくらいの気持ちでほどほどに付き合ったほうが互いに気負いが無くて良い。自分という存在や自身の健康も、人生の中で自分を大切にするというのは自己説明的な循環を起こしてしまっているし、それ自体あまり重要とは思えない(人生の中で何かをするから、それをする自分が大切なら兎に角)。じゃあ、大きな石となりえるものっていったい何さ、と思う。わからない。
たとえ大きな石を収めても、死んだら壷は砕け散って、結局炉辺に転がっていってしまうんじゃないか。とすると、人生という観点で考えること自体が間違ってるような気がする。死んだのちには評価も出来ないのに、死ぬまでの短い時間に何をするかを考えるのってどうなのか。それならいっそ死後の観点から考えて有益な事をすべきなんじゃないだろか。或いはいっそ刹那に生きて、その時その時をのみ評価すべきなんじゃないだろか。
大宇宙的な観点では、地球そのものがいずれ太陽に飲み込まれ消えてしまう。人類もその文明もいずれ消えて無くなる。人生で何かを成すのも、後世に残すのも、人間思考的な観点では全て無価値になる。だったらいっそ、生きている間にもっとも楽が出来るよう、もっとも楽しく生きられるよう考えたほうが良いんじゃないだろか。死後誰彼が迷惑するかなんて知ったことじゃない、どんな悪評が生じ噂されるかなんて知ったことじゃない、ただ生きている間最も快楽多く苦難少ないよう生きるべきじゃないだろうか。
なんてことを思った。
写真って、瞬間を写し出すにも関わらず時間を記録するんだよね。
言い換えるなら、点を照射して線を保存するような感じ。
時間を閉じ込める技術が生み出されてから、今日までに様々な記録が保存され続けてきた。
広島の原爆や、パールハーバーでの攻撃、ベルリンの壁が崩壊して、月には人が降り立った。
どの場面も、瞬間を記録しているのにそこに時間が封刻されている。だから、カメラって不思議だなって思う。
ここから話がちょっと飛躍する。
もし写真というものが刹那を被写体に時流を刻むものだとするならば、それはありとあらゆる写真にも応用されるわけで、
例えば家族写真、例えば修学旅行での集合写真に写ってしまうと、そこに私がいる(いた)ことが記録されてしまうわけなんだよね。
なんなんだろうな、それがちょっと嫌なのだ。
前々から写真やビデオに写るのは嫌いだったけれど、形あるものとして残りたくないのかもしれないなあって思ったりする。
気味が悪いような気がするんだ。
どうして人はカメラを向けるんだろう。どうして人は映像に残そうとするんだろう。
その人がいたこと、その出来事が在ったことは、己の記憶の中に仕舞っておくだけで十分じゃないのかな。
残すということと、存在を照明すること。
所詮は私こそが認識世界の中心なのに、他者に存在をアピールしてどうするんだろう。
私は誰かの記憶には残りたいけれど、だからと言って記録にはなりたくない。
ここまで書いたけれど、もしかしたら、記憶に残りたいからこそ記録を残すのかもしれないなあって思い至った次第。
終了。
直情的に動くなら、余計な小細工はしないで感情の全てをぶつけろ。
理論に徹するなら、底を深くして冷徹に揺さぶれ。
確固たる攻守のスタンスを貫き通せ。
どんな状況も、なんてことない顔してスタイリッシュに楽しみ続けろ。
手を休めるな。少しでも相手の優位に立て。
どんな甘美な好機も、己に酔った間に意味は立ち消える。
攻撃の優越感を機動力にしろ。スキを与えるな。
"過程のヴィジョン"を描き続けろ。
弱みや傷を見せるな。動揺や痛みは隠し通せ。
防御を選ばざるを得ない状況であったとしても、
"攻め倦ねている"のではなく、"誘っている"状況を作るように律せよ。
しかし。
いくら理論武装をしたところで、
自らを言い繕った"フリ"をし、己を奮い立たせたように"思い込むの"は、
最終的には無意味だ。
それが建前であれ本音であれ、所詮自分の1ピースをいたずらに相手に提示するだけ。
何もかもが相手に見透かされていたとしたら?
その時点で敗北は決まっている。
闇雲に野心や信条を露見する行為は、結果、
手痛い形で代償を被るものであることを自覚し、自制しなければならない。
肝心なのは自分がどう在りたいか、そのためにどう動いたか、であって、
戦いにおいて、"言葉"は最終的な鎧にはならない。
身を挺して自身を庇ってくれるものにはならない。
確固たる「意思」を「覚悟」できれば。
無意識で自ずと自分の行動に現れる。むやみに曝け出す必要はない。
それでも声を張り上げるのは、
結果の先に何かを狙っているからだ、と、
相手の思考を喰う為だ、と、思わせたいからだ。
そう、切り札は最後まで見せるな。
そして、それを切り札だと悟らせるな。
相手の真意を暴け。
結局のところ、最後に笑っていられる奴がいちばんかっこいいんだ。
「前の職場は酷かった。最低でも週1で課内の飲み会があったんだ。
平日でも終電まで飲むのは当たり前。金曜は9割方朝までだ。
この悪習の一番の推進者は課長だった。
終電間近に帰ろうとする部下を腕をつかんで連れていく。
やめてといって聞くような男ではなかった。
その癖いざ店に入るとぐったりして寝る始末だ。
俺も毎回飲み会に参加させられた。
特に週末は課長と上司に無理やり飲まされ、記憶を無くすこともしばしばだった。
上司は泥酔した俺をタクシーに乗せて家まで帰すらしく、気がつくと
自室のベッド、あるいは玄関先だった。
俺は怒り心頭だった。
ある土曜の早朝、駅前近くの路上で目が覚めた時、俺はついに決意した。
数週間後、飲み屋の3次会で、俺は酔った振りをして暴れた。
押さえつけようとする同僚も殴った。
俺は「泥酔して錯乱しているふり」をするのに必死だった。
かなり飲んではいたが理性を保ったまま、この課長お気に入りの店に会社ごと
同僚や上司に「今日はかなり飲まされてた」という印象を与えなければいけない。
出来る限り大声を出して暴れ、「ぶっ殺すぞ」と暴言を吐き、
隣の客や店員にも迷惑をかけなければいけない。
暴行を加えるにしても、クビになっちゃいそうな重傷は避けねばならない。
取り押さえられるまでの刹那の間、やらねばならないことは山ほどあった。
実際には理想よりも早く取り押さえられてしまった。
やはり、暴れ続けるのは恐ろしく大変だった。
怒りは突沸するもので、沸騰し続けるようなことはないと思った。
結果としては上々だった。
謝罪、始末書、弁償、えらい勢いで金が飛んで行った。
でも、この先行かなくて済むだろう飲み会の費用と考えれば、そう惜しくもなかった。
今回の件は課長らの査定に響いた。あの店からも見事に出禁になった。
まあ最悪クビ覚悟だったから白星としていいだろう。
俺も無事では済まなかったけれど、気分は晴れ晴れしている。
計画を立案し、実行し、望み通りの結果を得ることができた。
現代の細かく区別され、断片的にしか行えない業務では得られない達成感がある。