はてなキーワード: 武士道とは
http://anond.hatelabo.jp/20070421125945
本音を語るって勇気いるんだよ。誰だってコミュニケーションって難しい物なんだよ。
彼の話合わせようとする一生懸命さもわかってあげようね。
人間同士の間合いってのがありますね。
武士道の剣の世界なら一歩踏み出したら相手の刃先が届かない位置で斬られるかそうでないかのギリギリの間合いに自分の身を置くんだよ。
それと人間関係も同じで、本音語るほどの関係は相手に斬られるかもしれない間合いまでお互いが飛び込まなければならないんです。
本音を語って良い結果生むかも知れないし逆に斬られるかもしれない。だから勇気がいるんだよ。常に本音トークする人って勇気ある人だよ。
「斬り結ぶ剣の下こそ地獄なれ。」他人を見たら泥棒と思えっていうご時世だからしょうがないのかなあ。
でも、この人間の間合いって国や民族の風俗習慣でも違うから、日本はとかく世知辛いね。
尚、日本人はその人間の間合いが遠いけど、韓国人なら3センチだ。日本人は3メートルくらい。
思いつくまま書いたから、わけわかんなくなっちゃった。
http://anond.hatelabo.jp/20070405004641
識別子の有無と匿名性については色々思うところがある。
社会学か文化人類学か、まあその類の学問で、名前の無いものは意識されない、みたいな話がある。「ツンデレ」という単語が誕生する前にも、ツンデレ的なキャラは確かに存在した。しかし、「ほら、普段はそっけないけど素直になれないだけで実は主人公にベタボレみたいな!」とかそういう表現しか存在しなかった。「ツンデレ」という単語の存在によって、はじめてツンデレというキャラ特性が広くの人に認知され、ツンデレについて語ることができるようになったわけだ。
「ふたば☆ちゃんねる」では一時期、デフォルトネームが「としあき」となっていた。2chと違って名前があるわけだが、みんな「としあき」なので当然識別子としての意味はなさない。
どうなったかというと、あくまで個人的観測だが、コミュニティ内の連帯感が非常に強くなった。我々はみんな「としあき」である!我々は仲間だ!というわけだ。
話を戻そう。「としあき」という固有名を与えられた事で、そこに「私はとしあきだ」という認識が生まれ、強い求心力が働いた。その結果が強い連帯感だったのではないか、と感じる。
今では同掲示板のいくつかの板では名前欄自体が消滅し、「としあき」という名も無くなっている。以前のような盛り上がりが無くなってきた、と感じるユーザが多いが、それが住人の増加によるものなのか、名前の消失によるものなのかは分からない。
不特定多数の集団に、個人としての名前をまとめて与えるとどうなるか、という興味深い事例ではないだろうか。
ニュー速VIPについて考えよう。
ニュー速VIPの住人は、単にVIPにいる人(=「ニュー速VIP板住人」)ではなく、「VIPPER」という固有の名前を持っている。上記と同様の構造により、VIP板住人にはVIPPERとしての意識が生まれ、その結果結束力が強くなる。
さらに、「良きVIPPERらしさ」を示す「VIPクオリティ」という単語がある。この単語の存在が、VIPPERという存在を特異なものにしている。「武士道」「騎士道」「フロンティア・スピリッツ」など、その集団の気質を表す単語が存在する時、その傾向が非常に強化される。参照すべき基準の存在により、侍はより武士的になり、騎士は騎士的になる。VIPPERにはVIPクオリティがあり、VIPPERは「クオリティの高い」VIPPERたらんとして、その行動をVIP的なものにする。
「これがVIPクオリティ」という定型フレーズがあるが、しかしVIPクオリティには「これが」というような特定の基準という物が存在しない。集団の中でなんとなく形成されているものなので、集団が「VIPクオリティ」に近づこうとするにつれ、徐々にVIPクオリティは煮詰まっていく。結果、VIPPERの行動は突飛なものになっていく。
そんなものがあると思ったら大間違いだ。
「増田」という名前を与えられた集団がどうなっていて、今後どうなっていくかを注視するのも面白そうだが、正直めんどい。
ええと、文房具全部にたろうって名前つけてたんだっけ。道具を擬人化したかったのか、あるいは自分の道具をその他の道具とは違ったものにしたかったんじゃないかな。どうでもいいや。
バンカラは、弊衣破帽と称される損傷した衣服を纏う事により、「己の外見を飾ること以外の何事かに、より熱心である」ことを表現しようとする若年服飾文化、およびその源泉となっている気質。
粗末な衣装によって「表面の姿形に惑わされず真理を追究」という姿勢を表現したものとされている。また、ハイカラのアンチテーゼとしてのバンカラは武士道にも通じ、「単に外見の容姿のみに留まらず、同時に内面の精神的なものも含めた行動様式全般」とも理解されていた。外見に無頓着な体裁とそれを正当化するための動機が複合した文化であると言える。
Wikipediaのバンカラの項目を読んでると不思議とその姿がヲタと重なって奇妙深かったり。
ヲタの服が粗末だ、とは言わないが、バンカラ的な「己の外見を飾ること以外の何事かに、より熱心である」「表面の姿形に惑わされず真理を追究」というのは(一般的に)自らの容姿には無頓着とされるヲタ気質に近いモノがあるような気がする。まあヲタといえども現在はいろんなタイプに分化してるんで当てはまらないケースも多々ありそうだけれど。
日本では、活動休止→解散と至ったバンドやグループが結構多い。海外のミュージシャンに視点を移せば、ナイン・インチ・ネイルズのようにアルバム発売ペースが5年に一枚くらいのバンドやグループも結構あるのに、である。まあ、洋楽と邦楽では音楽界における事情がいろいろ違うことは事実なのだが、「止まったら死んでいるようなものだ」、という印象が日本では強いことに対する、ひとつの証拠になりそうなケースである。
別のケースを紹介しよう。西洋の人々は、長期休暇のたびによく旅行する。これは裕福な人々の間における余暇の過ごし方なのだが、日本人は裕福であっても旅行をする暇すらないような状況にある人が多い。またコチラの記事によるとアメリカでは55歳までに生涯暮らせるだけのお金を稼いでしまい、それ以後は働かずすごす人も多いようである。しかし、日本では60歳以上でも働きたいと思っている人が多いし、そもそも、「お金持ちなら遊んで暮らしてもいい」という考え方を許さない国民性が、日本人には少なからず存在しているように見える。
これらをまとめてみると、日本人は他の国の人々と比べて休むということを知らないのではないか、と思えてくる。本当のところ、このような国民性が高度経済成長期を支え、また、折れることのない不屈の侍魂(武士道精神)を作り上げ、日本が世界において高い評価を勝ち取ったことはまぎれもない事実であろう。しかし、このような国民性は、現在悪い方向にも働いている。過労死である。
実のところ、上で述べた国民性は、「初心忘るるべからず」の精神に基づいているように思える。つまり、社会や仕事に慣れてきて、会社内でも昇進が約束されるようになり要領のいい生き方を会得してからも、不器用だった頃の自分のようにたゆまぬ忍耐力と壊れることのない向上心をもって仕事に励め、ということである。そして、このような国民性は高度経済成長期において、年功序列制度と互いに助け合う形で日本の発展に貢献したのである。だから私からすれば、「勤勉な日本人」というレッテルは今の時代マイナスな意味合いも強いように思えるし、むしろお偉いさんが若い人などに強要している概念であるようにすら思えてならない。
最近、原則年中無休の店が当たり前のようになっている。それに伴い、社会人もだんだん年中無休体制に移行させられているように思える。これは「失われた10年」の生み出した悲劇なのかもしれないが、もうちょっとのんびりした生活を送れる環境が労働者に整わないと、過労死がもっと増え、不幸な世の中へと変わっていくのではないか、と心配でならない。日本人は、もっと休むということを知るべきなのではないだろうか?もっとゆとりを持って働くためにも、もっと人生を楽しむためにも。