はてなキーワード: 二人三脚とは
おれ、自分の息子がそんなこと言い出したら泣いちゃうな。
そりゃあ、ちゃんとした職に就いてはもらいたいけど、
別に就職してもらうために、苦労して育ててるわけじゃない。
二十何年か、二人三脚とはいわないまでも、一緒にやってきて、
それからの人生も、まぁそれなりに全うしてくれればいい、と思ってるのに
ちょっとやそっとのツマヅキで、残りの五十年をフイにされたら、
いったいどうしたらいいものか。
保険金で学費がチャラになったからいいか、なんて親はいないよ。
これからあなたが、就職は失敗するかもしれないけど、
人生の楽しいことや良いことは、まだまだこれから沢山あるって、
そういったことが、学費の数百万ばかりとつりあうものか。
「百年に一度」の不況なんだから、そう自分だけ責めても仕方ないじゃない。
真面目にやってたら、景気がよくなったときに、また自分のやりたいことができるんじゃないの。
仮に、十年かかったとしても、まだ三十ちょっとじゃないの。
まだまだ人生いくらでもなる年だよ。
・よく訓練された信者とは
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20080522
デバッグ途中でマスターアップしてましたものを売った後にユーザーとの二人三脚でパッチを何度も出して仲間意識を高めてみたり。
そんなメーカーとの虚実交えつつ結局のところ小出し情報を上手いこと操作され逆らえない、血を吐くような遣り取りを経た先に思考を停止し愛瑠璃無罪の心境でとりあ
イキロ
私は専門家の手に負えなかった。
「悲しみは半分こ」できるならば、毒も悩みも一緒に半分こ、してくれるのが一番救われるかもしれない。
わかってるじゃない。
誰かにすがるしかないよ。
でもって、一般人だと迷惑がかかるから、専門家やカウンセラーにおんぶにだっこだ。
オイラもいろいろあって、やっとわかってきたけど、まぁ、なんだ。ダメならダメでいいから、適当にダラダラ生きるといいよ。毎日がオマケの一日でも楽しくなるときがあるかもしれないから。
※匿名ダイアリーに書くの初めてなのでトラックバックミスったらごめんなさい。
ヘルプ読んだけどわかりづらい……
思いつくままに書くので、長文ごめんなさい。
昨日、はてブの注目エントリで彼女のブログの記事がとりあげられているのを見て、他人事には思えず、気に掛かっていた。その翌朝の訃報。耳を疑い、テレビニュースに釘付けになり、ネットニュースも見た。
はてなの住人さんたちはどんなことを書くだろうか、と思っていた。これからもっと触れる言及が出てくるかな、と思っている。
私の場合を片隅でも発信して、似た人、もしくは似た人の近くにいる人の何かの参考になれば、と思った。
私は鬱病と診断されて4年、その後、転院して、境界性人格障害と別の診断をされた。
死ぬことをはじめて意識したのは幼稚園のときで、それから30年近くずっと消えない。
「自殺未遂」の経験は、たぶん境界性人格障害の人間にしては少ないほうだと思う。
だから診断に時間がかかったのだろう、とも思う。
ずっと、「死にたい」「消えたい」という毒が自分の心から湧き上がっていたが、押し殺してきた。
リストカットをしたのは、中学生のときに一度だけ。二度としないと誓っている。
オーバードーズはずっと自分に禁じていたが、とうとう、先週、やらかした。
2日間、意識不明で点滴を打たれ、死なずに、幸いにも後遺症も残らず、生き残った。
(そもそも、オーバードーズじゃ複合要因がないと死ねないのはわかってたけど。)
オーバードーズする1ヶ月前から、薬の効きが悪いので、もう病院に頼るのはやめようと思い、通院していない。
薬の断薬作用がひどかったら通院しようと思ったが、ないので、たぶんこのまましない。
医者の処方どおりに薬を飲めない人間には薬を処方される資格はない、とずっと前から思っていたので、オーバードーズ後の意識不明状態から復活したあと、残った薬は全部捨てた。
前置きが長いが……
リストカットも、オーバードーズも、私が最後に選んだSOS発信の方法だった。
本当に死のうとしたわけではなかった。
死ぬならもっと確実に死ぬ手段を選ぶ。
前に、鬱病と診断され大量の薬を投与されていたころ、
病院の受付との些細なやり取りのすれ違いから大いに傷つき、憤慨し、
通院と投薬を自己判断でやめたことがある。
ブログにもその詳細をぶちまけた。
友人たちが、通院の再開を勧めてくれた。
本当に私が心から望んでいたことは、一緒に憤慨し、一緒に病院に行ってくれ、病院側の不手際を責めてくれて橋渡しをして問題を解決してくれ、私がまた心を開いて通院できる状況を作ってくれることだった。
「病院には行ったほうがいいよ?」という言葉はたくさんかけられたが、、
「一緒に行くから、病院に行こう。」と言ってくれる人はいなかった。
通院を再開したのは、ひどい断薬作用に苦しんだあとの自己判断だった。
泣きながら病院の先生に受付の人とのやり取りについて訴え、そこで他の患者からも苦情がついていたことを知り、先生から謝罪を受けた。
それを受けて、再開した。
「ただ、SOSはブログではなく、もっと大声でやれるようになると……」
と言われた。もっともだなぁ、と思った。
たぶん、言われるのを待つのではなく、一緒に行ってくれ、といえばよかったのだろう、と思う。
でも、あのときの自分は言えなかった。
変にプライドが高いのかもしれない。人への助けの請い方がわからない。
この場合のSOSの受信の仕方はどれが正しいのかも、よくわからない。
私が望んだように「病院に引っ張っていく」のは、本人を甘やかせるだけのような気がする。
私が「病院に一緒に行ってくれ。」と頼むように、変えていくのがたぶん正しいとは思う。
でも、他人のためにそこまでやれる人がどれだけいるだろう。
みんな自分が生きることでいっぱいで、そこまで他人にエネルギーを割けないだろう、と思う。
境界性人格障害、と診断されたとき、自分はとても納得したが、同時にひどい衝撃を受けた。
ご存知の方はご存知だと思うが、境界性人格障害(ボーダー)の人というのはとても困った人が多い。実に。周りをかきみだす迷惑もの。
そう思っていたので、自分がそれだったか、と思うと……
しかも境界性人格障害ならば、鬱の薬は本当に補助的にしか効かないわけで、根本的な解決方法はない。
私の「死にたい」「消えたい」と湧き上がってくる毒は、薬では消せないわけだ。
私は軽いパニック発作と、不眠も症状として持っているが、そのころから、その薬も効かなくなった。
どんなに薬を強めても、眠れないときは眠れないし、逆に、眠れるときは何も飲まなくても眠れる。
パニック発作も薬を飲んでも軽減しない。
だんだんと自分で受け止めきれなくなった。
実母に訴えた。
「私はこんな障害なんだよ。死にたいのが消えないんだよ。生まれてきた意味がわからないんだよ。」
と言った。
実母は泣いて謝り、どうすればいい?と逆に私に聞いてきた。
私をそんなふうに育てたのは実父のせいなのだ、と自分の感情をぶつけてきた。
それから数ヶ月。
そんなことはもう忘れられた。
眠れないことも、嘔吐がとまらないことも、周りには伝えていた。
目の前で吐いたこともある。
病院で症状を訴えると、聞いてもらえるのて処方も変えてもらえるのだが、それが効かない。
自分の「毒」がもうとめられなくなった。
誰も私を助けられない。助けての声が届かない。
私が追い詰められていること、苦しいことを、訴える手段がもう、なかった。
結果、オーバードーズとなった。
私は誰かに救ってもらえる余地があったのだろうか。
「死にたい」「消えたい」という毒は、他でもない、自分の心からこんこんと湧き出る。
それはどうやったらとまるんだろう。
オーバードーズでエネルギーを放出した今は、毒の出る量は減っている。
でもこれが再び大きくなったとき、次はどうなるんだろう?
私は負けずにいられるだろうか?
周りの人に望むこと……よくわからなくなった。
たぶん、毒が湧き出ない人にはわからないことだと思う。常に毒を自己生成される人間の内面は。
そして、きっと、手に負えない。
「毒」を放出する「SOS」は、それを受信した人にも「毒」を伝播する。
SOSを真摯に受け止める人ほど、きっと毒を食らう。
その闇に取り込まれる。
それがわかっているから、SOSを出すことをためらう。
大切な人に自分の毒をあてたくなくて、自分の中に押し込めて、押し込めて、死を選ぶしかなくなることもあるんじゃないか、と思う。
決定的な自殺を選んだことがないのでわからないけれども……
たぶんそれは、己の毒に負けたとき、なのかな、と思う。
人を救う、って難しい。
人に人は救えるのか?
身近にそんな困った重大な人を抱えてしまっている人に、私が言えることは……
なるべく気にかけて、寄り添って、否定しないでいることだろうか。
でも、毒を受け続けて、共倒れになることも、危惧する。そうなるのを恐れる。
餅は餅屋、専門家を頼るのが一番、といえたらいいのだけれども、
私は専門家の手に負えなかった。
「悲しみは半分こ」できるならば、毒も悩みも一緒に半分こ、してくれるのが一番救われるかもしれない。
そうしたら、いつかは毒が消える日がくるのかもしれない。
私には正解はわからない。
長文、失礼しました。
http://anond.hatelabo.jp/20080527065749
hrkt0115311さんのアドバイス、なるほど!と思いましたので、
私が書いた記事のURLを追記しておきます。あわせて、内容も短く添えておきます。
hrkt0115311さん、ほんとにいろいろありがとうございます!
http://anond.hatelabo.jp/20080527135329
…病院への付き添いについての、私の経験談
http://anond.hatelabo.jp/20080527135929
…病院につきそってほしかった私のSOSは、ボーダー特有の甘えとの気づき
http://anond.hatelabo.jp/20080527140359
…いただいた、「イキロ」の言葉に感激泣き
http://anond.hatelabo.jp/20080528020715
…hrkt0115311さんからいただいたトラックバック記事へのお礼とお返事
感謝感激です
http://anond.hatelabo.jp/20080528025927
…一番最初の記事「SOS…私の場合」の補足
http://anond.hatelabo.jp/20080528031558
ちょっとここまで書いて、一休み中です。(多少、息切れ&整理中)
「自分のブログよりも多くの方に目にとめていただくこと」
真摯にいただいた反応もとてもありがたく参考になったので、
今度は増田としてではなく、サブアカウントをとって、まとめておくなり、
続く限り記事を伸ばしてみるなり、新しいニュースを受けて書いてたりしようかと考え中です。
「つらい人、悲しむ人を少しでも減らしたい(自分も含めて)」
って思うならば、
一度思うだけじゃなくて、思い続けて行動し続けないと、
きっとすぐに忘れちゃうような。
川田亜子さんの訃報についても、新しいことが出てこなければニュースにならず、
だんだんと過去の出来事になっていくし……忘れられていくし。
とりあえず、まだ未定です。
コ○カの社名の由来を教えてもらった。ビックリだった。
コ○カの社長は若い頃から地道に働き続け、いまではTVCMを出すくらいまでに会社を大きくした。
だが、そこまでの苦労は並大抵のものではなく、早くに結婚した妻と二人三脚だった。
二人の努力は報われ、会社の規模は大きくなっていき、株式会社化も間近と思われた頃、苦労がたたったせいか妻が病死してしまった。
社長はもちろん悲しんだが、亡くなった妻のためにもと努力を怠らなかった。
そしてついに株式会社化が決まり、社長はこれを機に社名を変更することに決めたのだった。
その会社名は、亡くなった妻の名前から取った。いつまでも初心を忘れないように。妻への感謝を忘れないように。
妻の名前は「カナコ」だったのだ…。
感動的な話だが、もちろん作り話だ。