はてなキーワード: マルチエンディングとは
気持ちはよく分かる。ただしオレは「いかにもヒロイン」と「サブキャラA…と思っていたら実は…」みたいな人との間で揺れるのも好きだから、同意されても困るかもしれないが。
しかし、あなたの言う『なんか、何周かしないと物語の謎がとけないとか完全な結末じゃないとか言うゲーム』『型やら月やらなんやら』というのは、結局「完全な結末」が一つだけあるのであって実は本当は「マルチエンディング」ではないのではないか、一つのストーリーの「エンディング」というのが単に一つのサイドストーリーの「種明かし」にしかなってなくて、全然「エンディング」じゃないから不満が起きるんじゃないだろうか。
むしろ『マルチエンディング』というなら、どの「エンディング」を迎えても、「ああ、これで満足だ、このゲームの面白さの全てを、私は堪能した!」とか思わせてくれて、で、そのエンディングを迎えた瞬間もはやレジストリをクリアして再インストールでもしない限りそのエンディング以外にはたどり着かなくなる……という風に作るべきではないか。つまり、真のマルチエンディングなゲームというのは、あなたのような人のためにこそあるのではないだろうか。
というわけで、あなたのような人にこそ「真のマルチエンディングなゲーム」を開発して貰いたい!
切に!
……まあ、売れんだろうがな
どう考えても。
好きじゃないんです。
エロゲ・ギャルゲで、主人公の選択肢で結ばれる相手が変わるというのが好きじゃない。
例えばそのゲームでもの凄く好意的に思えるキャラが居て、マルチエンディングだからこのキャラは主人公と結ばれて幸せになるけど、ストーリーが一つだったらこのエンディングはない、ということがあったとしても私はマルチエンディングが好きじゃない。
なぜかといえば、それは、私がどうしようもなく童貞で夢見がちな人間だからなんだけど。
違う状況におかれたとはいえ、同じ性格の同じ人間達に囲まれて、片や無愛想な少女を愛した主人公がその口で恥ずかしがり屋な女性を愛してるという。
いや、ま、現実なんてそんなもんですけど。私にはどうしようもなくやるせない気持ちになるんですよ。
「え、何?この主人公はその人を愛してるんじゃ無くって、状況的にそうなったからつきあってんですか!?それ酷くない?」という。
現実とゲームの区別が出来てないよって言われればその通りなんですが!なんですが、一度クリアしたから次は主人公が愛し愛された女性をほっておいて、その女性の目の前で他の女性を愛させましょうって、それがもうきつくって。
だから、そう言うゲームをやるときは基本一番ヒロインぽい人のエンディングだけみてそれで終了。ストーリーが一つだけの作品として楽しむことにしている。
最近つうか近年は、なんか、何周かしないと物語の謎がとけないとか完全な結末じゃないとか言うゲームが、型やら月やらなんやらで出たけど、この主人公シネって思ったのは私だけなんだろうなー。と言うか作者シネ。
まぁ、最近のギャルゲは短い期間で好きだの嫌いだのやってるから余計薄情に感じるのかも知れないですけどね。
つうか、皆さんはマルチエンディングって好意的に受け取ってるの?
痛いニュース(ノ∀`):【ケータイ小説】モバゲー小説大賞で優秀賞を受賞した作品がエロゲの丸パクリな件
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1037943.html
「メビウスの輪」ってケータイ小説がC†C(CROSS†CHANNEL)に似ているっつかパクりだったって話なんだが。
ふと思うと、この主人公輪廻ものっつーかループものが昨今流行りすぎている気がする。
そもそもエロゲーなどのマルチエンディングなゲームの場合、プレーヤーは仮想ループ状態に入ることが多い。
# ループしている生活の中で誰のフラグを立たせるかっていうのがあの手のゲームだから。
それをシナリオ上でループさせてやろうってパターンのゲーム。最近多いような気がしてきた。
ちょっと違うかも知れないが、ひぐらしもループ系に似た展開をしていると思われる(やったことないから保証無いけど)。
そしてこの話。
52 名前: カメラマン(長屋)[] 投稿日:2007/10/02(火) 13:28:08 ID:y9JdE/+s0
58 名前: ロマンチック(栃木県)[sage] 投稿日:2007/10/02(火) 13:28:26 ID:UkNAp+qn0
ここまでそっくりなのは盗作だろう。
ベタでジャンルとして確立しているとはいえ、最近の(ラノベやエロゲの)大作って概ね「伝奇もの」か「猟奇もの」か「ループもの」に集約されている気がする。
# その中でななついろみたいな「魔法少女もの」も根強い人気があるのもおもしろい話だが。
で、何が言いたいかって言うと。
ループもの飽きてきた('A`)
高校までは普通に恋愛し、普通にセックスし、それが当たり前だと信じて疑わなかった。でも、大学で出来た友人にあるゲームを貸され、いやいやながらもやっているうちに、考えが変わっていった。それは本当に当たり前なのか?そして3次元である必要はあるのか?
性欲という点で言えば必要は全くない。セックスよりもオナニーの方が気楽で気持ち良いように、むしろ2次元の方が優れている。確かに3次元とのセックスは性欲だけではない、心の充足感とでも言うべきものを感じることができるが、それは恋愛と同じく錯覚であり、ちんこを扱いたら精子が出るような当たり前の身体的反応でもあるのだから、気づいてしまえば取るに足らないものである。
恋愛という点でも、ちんこやまんこ、金や子宮、そういったものを求める心を、愛だの恋だのと虚飾して悦に入ってるのだから、2次元と大差はないし、むしろ2次元の方が純愛とすら言えるくらいだ(厳密に言えばナルシス的なものではあるのだが)。その過程がいいのだと言われても、自分にはゲームと大差がないように思われる。恋愛にしろセックスにしろ、相手が喜び悦ぶ、物、シチュエーション、言葉、責めを与えれば、二人は素敵な恋愛、素敵なセックスをしてることになるのだというから、ちゃんちゃらおかしい。やはり、その程度のものなのだ。
社会的、子作りの点でも、最近では結婚しないからといって露骨に迫害されることもないし、自分は子供を作ろうとも、作りたいとも思わない。結婚してからの生活を、先輩や上司に聞いたりするが、話を聞くとますますそんな気も失せる。よく、老後に一人寂しく死んでいくぞ、とか言われるがそのために結婚、子作りをしたいとは思えないし(そんな動機は不純だと思うのだが今更不純も何もない、あるいは元々不純なものなのだということだろうか)、妻にその時まで愛情を持たれているとも、子供に持たれるとも限らない。そんな中、仕方がなく側に付き添われるくらいなら、思うがままに生きて、そして一人で死んでいきたい。
そういったわけで3次元と交際する必要も、したいとも思えないので、大学の頃から9年間、社会人になった今でも2次元と共に生きてきたし、そしてこれからも共に生きていくことになるだろう。これから先、多くのキャラと出会うだろうけど、9年経った今でも、魅力的なキャラに数多く出会った今でも一番は変わらないのだから、やはりこの思いは、死ぬまで変わることはないと思う。これまでも、これからも、私を導いてくれた、マルチがずっと胸の奥底の大切な所にずっと居続けることだろう。
そう考えると、自分は一人ではないのかもしれない。今でも私の心には数多くの女の子達がいる。そしてそれはこれからも増えていくだろう。私は一人ではない。2次元を胸に抱きながら、私は生き、そして逝く。