はてなキーワード: ケイとは
http://anond.hatelabo.jp/20070419161403
http://izanagi.iza.ne.jp/blog/entry/154401/
>公社は長崎市の正規の試験には合格することが困難な人が、コネクションを使って入ることが出来る場所なのです。
これ一般人が知ることのできる内容じゃないよう。ほか多数あり。
きっこの真似でしょう。
さすがに、サンケイの記者が自分で書くなんてバカなことはしないと思うけど。
どこかの、少しだけ頭のいい(*)嫌韓厨が書いているのを、サンケイが野放しにしているだけでしょう。
(*釣りだとバレバレなので、それほど賢いわけではないが、現に釣れる人もいるようだから…。)
どう見てもねたです。本当にありがとうございました。
「かんしゃく」なんていまどき日本人でも使わないっての。
もちろん日本人。しかもおっさんの可能性大。キンモーッ☆
しかし、よく続くよなあ。とっくにネタバレしてるの気付いてないんじゃないのかこれ。
ブクマ↓
http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//izanagi.iza.ne.jp/blog/
録音機のラッパをひびかせて、昼間の住宅街にゼリーやミルクを売りに来る牛乳やのトラックがあった。
兄弟が二人いたけど、一人で留守番してたりするときこっそりおこづかいでゼリーを買ってひとりだけこっそりおやつを食べたいなあ…とか妄想したりしていた。実際おこづかいを握りしめてトラックまでいって値段を確かめるところまではしたことある。実行したことはなかった。いわゆる「よいこ」だったから「ゼリーひとつください」が、どうしても言えなかったんだ。
そんなある日、いつものようにおこづかいを握りしめながらゼリーを眺めていると、いつもと違ってお客さんが少なかったんだろう、牛乳やのおじさんが話しかけてきたんだ。
「やあ、坊や。おつかいかい?」。
「え、ええと…」
「ゼリー」のひとことが言えなかった僕は、いっしょけんめい「おつかい」らしい品物を考えたんだ。かといってここで「牛乳」とかいったら何を悩んでいたんだ?って不審がられるだろう。そこで思いついた僕は言ってみた。
「えーっと、バ、バターはおいてないんですか?」
そういえば、このトラックのお店は乳製品をいろいろ置いているわりにバターを置いてなかった。だから、言ってから正直うまいこと言ったなと思った。バターならおつかいっぽいし、見つからなくて困ってたことにすれば不自然じゃないもんね。
でも、僕の言葉を聞いた瞬間、牛乳やのおじさんは青ざめたブルーチーズのように固まってしまった。
「バターだって?!」
「え、ええ。バターです。ば・た・あ……」
僕がそういった瞬間、おじさんは恐ろしい形相で僕の口を塞ぎ、なぜか虚空を見上げて壊れたレコードのような声で呪文のようにこう繰り返し呟いたんだ。
「スベテノ、ニンゲンカンケイハ、バタートリヒキヲ、フクンデイル。スベテノ、ニンゲンカンケイハ、バタートリヒキヲ、フクンデイル。スベテノ…」
それ以来怖くなって二度とトラックには近寄らなかった。それからしばらくして近所に大型スーパーが出来て、牛乳やのトラックのあの録音されたラッパの音を聞くこともなくなったんだ。今から15年も前の話だけど。
宗教をなりわいにする人と「檀家」として少し金を払う多数とに別れてて、家族に不幸があったときにプロとしての対応を頼む、お金も払う。親せき友人集まる。
それを必要なときに利用する。それでいいのではないですか。
たいていの人の実家はなんか寺か神社か教会などに加盟しているので、そういう死にイベントのときに登場する。死んで散骨だけでいいです、という人はもっと何か考えがあってのことでしょう。普通は、なんかの形式で弔われて、それで一旦死亡完了。
それから、結婚式はこれは日本では宗教としては、むちゃくちゃですがな。だから言及しません。
信心が濃い人もいれば薄い人もいる。
なんか生き死にの困難にかかわるときに浮かび上がるものでしょう、たいていは。
だいたい西洋でもキリスト教とのつきあい方って、日本人と寺と似たような感じだよ。クリスマスには教会にめずらしく足を運びますみたいに。
だから平時に語り合うのはなかなか一致しにくいよ。葬式とその後弔意と思い出すための仕組み。
ガンガンガンガン普段活動するのは好きずきの問題で、俺は好かんね。でも自分たちの活動としてやってらっしゃる方は別にオウケイ。
千葉大の法経学部では、新入生が最初に受ける講義で、教壇に立った講師が、緊張気味の学生をぐるっと見回し、開口一番おもむろに
「おまえらホーケイか。」
一同「はい!」
http://anond.hatelabo.jp/20070221182447
千葉大学にはそのものずばりの「法経学部」があるよ。
千葉経済大学が「経済学部って名前は紛らわしいから使うな」と言って苦肉の策でホウケイにしたらしいが…。
学校内では皆慣れているので他大学の人と会話する時もつい「学部どこ?」「ホウケイです」と答えてしまいアレな感じに。
そして千葉大って学生証番号に学部名の頭文字をアルファベットで入れてるんだけど(教育学部はeducationだから「E」という風に)
ホウケイ学部は「法と経済」のどちらかをえこひいきすることは出来ないから「法 and 経済」の
「and」の頭文字をとって学部のアルファベットが「A」なんだよね。
名前の扱い酷すぎると思う。
質素にくらしても限界がある。
日本で経済的理由で自殺者がでるのは、どんなに質素にくらしてもミニマムのキャシュアウトが大きいことにかなりのウエイトがあるからなんじゃないかと思う。
商店街の世界に入って思ったんだ。これは無理だなって。
やっぱり無理。
例えば昔ながらの商売をしてきた人に才能と努力をもちあわせてたとしても成功はおぼつかないと思うんだ。同じだけの才能と努力をほんの少し違う場所で生かせればもっと簡単に稼げるのは事実だと少なくとも自分は知ってしまっている。
だけどまじめな人ほど今までやってきた事を辞められないよね。
むかしながらの取引先をやめるとか、納入先を辞めるとか、個人のお得意を切り捨てるとか。
もっといえば店を閉めて百貨店のブースに切り替えるなんて判断をとれるわけながい。
それを合理性判断とするか、非情な行為とするかで心の重みが違うと思う。