はてなキーワード: 中古車とは
何年か前の成人式のように何事もないように過ごしても良いのだけれど、
成長というものは面白いもので、自然と実家に向けて僕は中古車を走らせていた。
案の定、陵辱的な気分を味わうことになり、すぐに帰休を後悔した。
己がつけた名前ではなく、筆名で僕を呼びつける両親の顔は嫌らしく歪んでいて、
親戚の前で持ち上げられるたびに、僕の気分は落ち込んだ。できれば怒鳴り散らしてやりたかった。
壁に貼った「いつか見返してやる」の紙は、一時の達成感で勢い余って破り捨てたけど、
世間に対する捻じ曲がった視線っていうのは、数日の満足感ごときじゃ簡単に矯正されないようで、
次から次へと口から出てくる悪態は止まりそうにない。
心地よささえ感じるのだから、たぶんもう治らないのだろう。それで良いと思っている。
著作権に関する論争は政治戦の様相を呈していて実際のポジションと論理の乖離が目立ってきた。
そもそもの問題は「コンテンツ市場の維持」あるいは「市場の次世代形態への軟着陸」であったはずだ。消費者の保護でも業界の既得権確保でもなんでもない。
結論だけ求めれば自由経済なのだから権利者とユーザーに埋められない溝があれば「売らない」「買わない」で済む。自由意志の下に搾取など出て来ようが無い。実際、クリエイターからユーザーに至るまで制作流通視聴の手段は以前より増えていてより“自由”になっている。自分の利益を損ねるなら参加しなければいいのだ。POPミュージックに中古車ほど需給の情報非対称性があるとも思えない。
また賛同者の多寡は何の意味も持たない。多数決の意見だけで価格が決まるならダイヤはタダになる。
しかし行き当たりばったりに市場の些細な失敗の度にそれなりの規模の需給システムが崩壊するのも非効率である。
長年形成したコンテンツの供給機構と市場、それを消費する文化的生活が不安定に晒されるならまずは話し合いでもして落としどころを探りますか、というのが現状のはずだ。
つまり、目的は「どちらかの主張の撃破」では無く「社会の利得の最大化」だ。
極端な例で考えよう。著作者の法的権利を絶無にすればどうなるか。逆に権利を最大化すれば消費者はどう振舞うか。そのどちらでも市場の破滅的縮小が予見できる。
では適正なパワーバランスがあるとしてその根拠はなんであるか。また、運命論的に結果が予見できないのが当然だとしてそれを実験、調整することが予定されていないように見えるのはなぜか。
日常的な業務では当然なのだが、未知のシステムのバランスを取るためにプロトタイピングは必須ではないか?
現状はどちらの側も古めかしい政治機構を通じて「一方的な法的規制」という言質を取り、既得権利の拡大を目指しているだけに見える。全体主義国家さながらに、だ。その思惑はどちらが勝利しても市場は崩壊するだろう。
なんか、かわいいな。
初めて車買うから舞い上がってる感じが。わかるよー。
http://anond.hatelabo.jp/20070720125005
の記事に激しく賛同するとともにオチにワロタ。
俺は最近アドビプロダクションスタジオを自宅用に購入して唖然とした。
仕事先PCに入っているプレミアやフォトショ・アフターエフェクトは5年ほど前で時が止まっている。
10万以上払って最新のものを購入して全部入りをGETした。
正直いってワクワクテカテカしながら自宅のPCにインストールした。
なにせ5・6年前といまなのだ。
車からタイヤがなくなってふわふわ浮いていてもおかしくない。
おおげさなHOW TO系のDVDを再生しながら長いインストールの時間を待った。
それぞれのソフトを立ち上げて確認してみた。なにも変わっていなかった。
(・3・)アルェー?
などとノンキな気分で最初はソフトをいじっていたが次第に怒りがこみ上げてきた。
本当に大して変わっていないのだ。紹介DVDはいまだ自慢げに何がどう変わったかを説明している外国人のプロを映し出している。冷静に聞いてみると大した変化を説明していない。20歩譲ってアフターエフェクトに関してはまあいいとしよう。しかし他のソフトもろもろ特にプレミア・フォトショ・イラレに関していうと「中古車の外にメッキを施してカーステレオをMP3プレイヤーに変えてナビを付けました」程度にしか変わっていないのだ。