じゃぁ、何がグッドノウハウかというとC++の継承、メンバ関数、Virtual関数
C++の継承やVirtual関数は中身はvtableでvtableって何のこと?っていうと
アセンブラがCALL命令
C++ではそれをうまくオブジェクト指向の継承という概念に持ち込んでいる。
ほとんど使われていないけど、いちおう、クラスのメンバ関数の関数ポインタという概念や
スタティック(メンバ)関数の中に素の関数ポインタは残ってはいる
だから、今でも関数ポインタを使うのは 本当に1部の残された領域と
高速化のために継承じゃ追いつかない所をハンドメイドで書くぐらいだと思う。
インタプリタのメンバ関数呼び出しとVtableによるメンバ関数呼び出しは
見かけは同じように見えても、(実行速度とか含め)全く別物だからという注釈は書いておこうかなと。
一般的な話だけど、私の場合は論文ソースを示すことが要求されるような状況にあったのでそういう例を出した。
自分の例を挙げながら一般的な話をしたって別にいいだろう?
だが、健康情報について言えば論文ソースを探すことはエリート主義でもなんでもなく普通に必要なことだ。
え、どこがいいわけなの?
まぁ、今は確かに「面倒くさい」っていうのがあるけど、当時は、時間があったから、本気で、丸一日、
「これは出すべきなんだろうか?でも、出すと、来年xxさんの手間が増えて申し訳ないなー」
と悩んで、結局出さなかった。
昔、大学1年の時、サークルの10年近く上のOBで偉い風の人から年賀状が来たんだけど、
「これから先、そんなにお世話になるとは思えないなぁ」
「自分なんかに、次の年も年賀状送ってもらう手間を考えると、恐れ多くて返信出せないなぁ」
と思って、出さなかった。
ちょっと会ったことあるだけの人間の住所を知っているというのも不自然だし、不気味だし、申し訳ない。
相手の出す手間を考えると、とてもじゃないけど年賀状怖くて申し訳なくて出せない。
なんか言い訳だねぇ。
言い訳するのなら書けばいのに。
自分はもう40代なんだけど、それなりに紆余曲折の末、若い頃に思い描いていた夢にやや近い仕事ができてるし、先のステップも見えているんで、多分死ぬまで夢に近づいてく道にいるだろうなと思ってる。
夢ってのは甘美な言葉でね。夢のためなら大概のことは犠牲にできちゃうし、逆に大概のことを犠牲にするくらいコミットしてないとかなわないから夢なんだとも言える。でも、大概のことを犠牲にする言い訳にも使えるんだよね。
夢の内容によっては年齢にリミットがある場合もあるから当てはまらないかもしれないけど、彼氏にこう考えてもらったらどうかな。「40になって、あるいは60になっても芽が出ずに、相方が仕事して自分が主夫してて、毎日洗濯したり子供迎えに行ったり晩飯の材料買出しに行ったりして、それでもまだ夢を追っている生活」が想像できるかどうか。人にもよるけど、男にとって「一生喰わせてもらう」「外で稼いでくる相方のためにずっと家を守っている」っていうのは伝統的な観念に反するから、受け入れ難い人もいる。だから「いつかは夢を実現して、家族に喰わせてやる」って思っているかもしれない。男のプライドってやつだね。でも、「夢を追う」と「家族を持つ」を両方取りたかったら、一生家族に喰わせてもらうって選択肢を現実のものとして考えないとならない。つまり夢のために「男のプライド」を犠牲にする覚悟がいる。その覚悟が無いと、家族の方を犠牲にすることになるよ。
自己啓発書を読まないことやスマートな努力家が周囲にいないことが努力しない一因だと書いている。
やはり鍛錬法を知らないことが一番大きいと思う。
出すも出さないも、君の勝手
その結果も、君の選択したこと。
いいんじゃないの。
まあ老婆心から言うと
コミニュケーションを地道に繋いでおくのはなんかあったときに役立つし、年賀状って最低限の礼儀
みたいなものだから、同級じゃなくて自分より目上の人に出すのが良いと思うよ。
でも何一つ非論理的な部分を示すことが出来なかった。それが今の君。
というかこれは一体なにが対象の議論なんだ?
研究者のことなのか?
もしも自己啓発全般のことを言っているなら話がおかしい。
世の中の9割以上の人はそれに該当しない。
エリート主義の話なのか?
悪魔の証明が詭弁だからといって私が詭弁を言ったわけではあるまい。
心なんて本当にあるのだろうか?哲学的に考え出すとこれは非自明なことである。
思いこみと呼ぶのは勝手だが、定量化出来るものしか信じないのではまともに生活出来ないだろう。
いやぁそれがね、別に悪口言われたわけでも排除されたわけでもないのに、「恋愛対象にされなきゃヤダヤダ!友人止まりなんて自分が認められたことにならない!恋愛以外は承認にならない!」っていう人がいるんだよ。こういう人は、『気にしてない女性との付き合い』があっても満足できないからねぇ。
こういう考えは、自らの首を絞めているとしか思えないんだがな。
それは愛されてるってことだと思う。
相手も好きで出しているんで、自分が相手のことを嫌じゃなかったら出してもいいんじゃないか。
身体を鍛えることも実行に含まれるし、その人の目的によってさまざまとしか言えないだろう?
だけど、名著にあたってもいなければ健康情報のソースとして論文が一つもない、
実力ある師に就いたこともない、スクールに長いこと通ったこともない、とかそういう光る点が何一つもない人は信用できないけど。
だって、出したら、相手も次の年に出さなくちゃいけなくなって迷惑じゃん。
昔、大学1年の時、サークルの10年近く上のOBで偉い風の人から年賀状が来たんだけど、
「これから先、そんなにお世話になるとは思えないなぁ」
「自分なんかに、次の年も年賀状送ってもらう手間を考えると、恐れ多くて返信出せないなぁ」
と思って、出さなかった。
ちょっと会ったことあるだけの人間の住所を知っているというのも不自然だし、不気味だし、申し訳ない。
相手の出す手間を考えると、とてもじゃないけど年賀状怖くて申し訳なくて出せない。
そんな俺は、今年も出していないけど、同級生の友達から3通俺のところに来たよ。
成長してそこから得られるものが明確に自分にとって
成長するための努力をするだろうと思う。
仮に「多くの人が成長のための努力を行っていない」とするなら、
結局どこが非論理的と指摘されてるのか分からなかった。
明白な毒と言われても私にはちっとも明白ではない。
成長しようという明確な意志があることでどう変わるかとか分かった上で成長するかしないか選んだほうがいい。
鍛錬方法の書かれた本を読まないことが愚直な努力しか出来なくなる一因というのは事実であって主張ではない。
私自身はあまり本を読みまくるほうではないので、あまり勧めていないのだけど、
それでも本の恩恵くらいは理解してるので書いた。
いい人くん、まだいたのか。懲りないな。
じゃあ実行ってなんなの。