大概は、”私”とは自分個人のことで、”公”とはみんなのことだと考える。
「公私混同」というとき、たとえば、仕事してるときのプライベートな通話とかを指して言う。
しかし本来、”私”というのは個人のことじゃなくて、「何かの立場に立っている状態」を言うということ。
つまり、自分個人としての立場で、「~したい。」「~したくない」ということだけじゃなくて、日本人としての立場でも”私”である。
今みたいに個人が独立したのはごく最近で、1980ぐらいはもっと家族単位・地域単位でみんなモノを考えてた。
そういう状態でいえば、”私”とは家族や地域のことも含むことになる。どこまでが私事なのか??
例に挙げられたのは尖閣諸島の話だ。
日本人として考えれば、尖閣諸島が日本領だってのは当たり前で、その立場に立って中国を批判する。
だけどそれも、結局”日本人”の立場に立ってものを言っている訳で、”私”の意見なんだ。
中国人としての”私”の立場、日本人としての”私”の立場を踏まえて、もうひとつ上の立場に立って、じゃあどうすればいいか。考えるのが”公”だ。
日本人・中国人の立場に立って、お互いに主張しあうのは楽だ。だって「言うべき言葉」はもうわかっているから。考える必要はなく、ただ互いを恐れ、怒ればいいのだ。感情に任せて。
だけどそれは私事である。頭を使う必要がない。ただの動物である。
僕らは人間だ。感情の単純な発露である”私事”を踏まえて、きちんと解決を考えないといけない。それが”公”の立場だ。
日本人の感情。中国人の感情。それぞれの目的をちゃんと受け止めて、我慢すべきことは我慢して、お互いにとっていい状態を得ること。それが”公”だ。
俺は右翼を自認するけど、今右翼と名乗る人にはすごく違和感がある。
明治維新時の日本のように、単に中国(当時は西洋)を恐れ、その恐怖の反動で、”私事”で怒っているだけだ。
であれば、”尖閣は日本のものだ”という私事は横に置いて、”公”のために尽くすこと。つまり中国の人たちの希望も汲んで解決を模索することこそ、日本人の本来の姿なんだ。
よくわからんが、歴史的なことううなら公私混同の公が 敵国または類似 または 敵対的宗教団体等々 に 適用された例というのは極少数だと思うが・・・
バカは黙っておけよ^^
死ねよお前w