2010-06-01

分かってもらえるとは思ってないけど、分かってもらおうとは思って

それが誠実さってことだと思う。

だけどそれがbullshitの引き金になったりして。

最初はこの文章、さよならディスコミュニケーションさよならフランクファート

そして、こんにちわ「人それぞれ」

そう書きだしてみるつもりだった。

だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。

いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。

フランクファートはアメリカ道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。

邦訳は、ウンコな議論。

こんなこと議論してても意味ねーよばーかくらいの意味

これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。

翻訳者山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。

ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。

ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。

嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。

だけどそれは解答の放棄だ。

正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。

相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。

衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。

勿論それは日常生活スムーズに送る上では必要なことなんだけど。

だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。

言語は思考を規定する。それがビッグブラザーニュースピークを作った理由だ。

つまり、自由と言う概念存在しなければ、人は自由について考えることをしない。

もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。

ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。

ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。

大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。

そして、ウンコな議論が適切じゃない場におかれている場合は、それをこれうんこだよって言ってどけてあげることだ。

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