この、「ネタバレ食らった程度でつまらなく感じるような作品はもともとたいしたことない作品だ。本当にいい作品はネタバレしても面白い」論を見て思ったんだが、
こういうタイプの論調って他でも時々見かけるよな。
例えば「他人からのバッシングでつぶれてしまうような人間の才能なんてもともとたいしたことない才能。本当に才能があるやつはどれだけバッシング受けてもひとりでに立ち上がってくる」とか。
こういう論調って、何か胡散臭いんだよね。なんつーのかさ、こういう事言う奴って、単に面倒臭いだけなんじゃないの?あと、責任回避したいだけじゃないの?って思う。
大体、「本当に才能あるやつ」とか「本当にいい作品」とか、その「本当」って何よ、って話になる。「本当に」ってのはマジで曲者。なんか説得力あること言われた気になるけど、実質結局何も言っていないよな?本当にいい作品ってどんな作品?っていえば要するに、今回の場合でいえば「ネタバレしても面白い作品」であってさ。そりゃトートロジー的っつーか。無意味極まりないっつーか。
実際には、色々だろ?いい作品、ってのもたいがい曖昧な言葉だけど、それを敢えて使って言うと、「ネタバレ食らったら魅力が半減するけどいい作品」とか、「ネタバレ食らっても特に面白さは変わらない作品」とか「ネタバレしなくてもしてもどっちみちつまらん作品」とか色々あるわけで。そこんとこを、いちいち考慮したり判断するのが面倒くさいから、いっぺんにまとめて「本当にいいやつはバレしてもおkだろ!多分」的な感じでやっちゃってるだけじゃないの?
才能ある奴は何しても勝ちあがってくる理論でもそうだけど、こういう「本当にいいやつは何をしてもびくともしない」系の論って、だから面倒なだけなんじゃないのって。本当にいいものを壊さないように、思慮したりするのが面倒だから、「いいものは何をしても大丈夫なんだ」ってことにしてるだけなんじゃねえの?そりゃさ、「ホンモノは何をしても大丈夫!100人乗っても大丈夫!」ってことにすりゃ、楽だけど。そう都合がいいもんかね?
あと、「本当に才能ある人間はバッシングしてもひとりでに立ち上がってくるものだ」的論も、単に自分らがバッシングする正当化のための論じゃねえの?って思う。「ホンモノは何をしても大丈夫」論って、裏返すと「だから何やったっていいんだぜ!!オラオラ!……あ?才能が壊れる?作品のよさが損なわれる?ハン!俺らのそんな攻撃で壊れるようなモンなんざ最初からクズなんだよッ!!」ってことの正当化だろ?実際、そういう論調もあるし。「おいおい、あまり作者を攻撃するなよ」→「こんなバッシングで潰れる漫画家ならたいしたことねーんだよ」みたいなやつ、普通にあるだろ?結局そういうバッシングだのネタバレ行為だのを正当化するためだけの論なんじゃないの?
そうそう都合よくいかんだろうよ。んなさあ、「ホンモノは俺らが何をしようが輝いてくれます」なんてうまいこといくわけねーじゃん。都合が良すぎる。実際には色々だろ。そこんとこ、個別に考えることをはしょってるだけちゃうの?でも、はしょるならはしょるで「だから、なんか色々あるから一応全部バレ禁止ね!(バレ禁止ってのはそもそもこういうことだろ)」でいいのに、そっちには行かないわけだろ。だからやっぱり面倒くさがりなんじゃなくて「俺はバレしてぇ。でもなんかうるせえ奴がいる。そうだ!バレの正当化理論を考えればいいんだ!」な思想なんじゃね?
「マジコン程度で売れなくなるような作品はもともとたいしたことない作品だ。本当にいい作品はマジコンが流行しても売れる」 「着うた程度で売れなくなるような音楽はもともとたい...