2008-11-03

超能力や霊能力

内田樹研究室 http://blog.tatsuru.com/2008/11/03_1337.php が一部で物議を醸しているようだが、

しかし、「人がこれからなすこと」については現に高い確率でそれを言い当てている人が存在する。

「人を見る目がある人」というのは、まさにそのような人のことである。

そういう人が現に存在し、その能力により、災厄を未然に防ぎ、リソースの重点配分に成功しているなら、「どうしてそういうことができるのか?」をまじめに問うべきではないのか。

「なぜ、ある種の人は時間を『フライング』することができるのか?」と問うべきではないのか。

先日、ある新聞宗教について書いた。

その中で「『超能力』や『霊能力』のようなものは現に存在する」と書いたら、科学部の編集委員からたちまちクレームがついた。

これ、内田氏が「バビル二世」の類の超能力(者)を意図しているわけではないのは自明なのだが、しかし言葉が悪かったと思う。

というのも、世の中には超能力と言う言葉を、ある種の反科学、反知性そのものの使い方で用いる人間が後を絶たないからで、超能力とか霊能力とかいう言葉には、何となく胡散臭い雰囲気が付きまとうようになってしまっている。いつも彼のエッセイを楽しく読ませてもらっている人々としては、内田氏がそういう人であるという誤解(「終にウチダタツルもあっちの世界に行っちゃったか」という誤解)を生んでしまうのはちょっとまずいのではなかろうか、と思わずにはいられない。上述の科学部の編集委員もおそらく同じことを思ったのではないか。

(実際、字面だけを見て、物理の入門書をアフィリエイトする某などが出てきているので、やっぱり誤解を招く表現なのだと思う)

この場合、内田先生超能力や霊能力ではなく、ニュータイプというべきだったと思う。

超能力とか霊能力と言う言葉の即物性や如何わしさに対抗して、ある種の人の洞察力「みたいなもの」への淡い期待を(ユリ某や丹波某のようなショーマンと区別するために)ニュータイプと呼ぼうと言うのは、昭和カウンターカルチャーのひとつの到達点であった。

  • 確かに、ユリゲラー的なアレじゃなくて、有能な管理職的なアレの話だから反科学、反知性じゃないよな。門外漢が半可通で科学を語ってこけるパターンじゃない。だけど、文学者が言葉...

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