はてなキーワード: 劇薬とは
漫画でも小説でもいいんだけど、これはまさしく自分のことではないかという作品ってあるよね。個人的なイメージでは、「山月記」や「人間失格」なんかが、そう思ってる人の多い作品のような気がする。「秒速5センチメートル」は、私にとってまさにそういう作品。この映画の評価は、観る人の背景によるという評があったと思うけど、それでいうなら私は、背景による影響が最も大きい人の一部ではないかとすら思う。
こんなことソーシャルな知り合いが読んでるかもしれないブログでは書けないからここに書くんだけど、私も小学生のとき好きな女の子が転校してしまった。それから年賀状を交わすようになり、やがてそこにお互いへの想いをほのめかす文が添えられるようになって、中学生のとき晴れて再会することとなった。別に電車で3時間ということもなく、自転車でも行ける距離で、私も転校などせずに、手紙を交わし、さらに何度か会ったのだけど、結局うまくいってた期間は半年もなかった。
だからこそ、特に第3話「秒速5センチメートル」のシーンの一つ一つが、過去からの呪いとなって、私に突き刺さる。明里が手紙を書こうとしては手が止まってしまうのも、貴樹が通学路の傍に明里の影を見るのも、明里がポストを見て書くはずだった手紙に思いをはせるのも、貴樹が空の郵便受けに落胆するのも、すべてが自分と重なり、切ないを通り越して、やりきれない気持ちにさいなまれる。
手紙を書かなくてはいけない、出さなくては思いを伝えられない、でも動けない。手は止まり、書かないのか書けないのかも定かではなくなり、そして相手からの文も途絶える。そんな思いを畳み掛けられ、平常でいられようはずがない。やりようのない思いを胸に、今すぐにでも叫びだしたい衝動に駆られる。
最後、踏切で貴樹とすれ違った女性が明里である必要はないという意見があったけど、私はあれは明里でなくてはならないと思う。明里が電車の通過を待つことなく去ったからこそ、貴樹は踵を返したときに、下ではなく前を向けたんだと思う。自分もそういう機会が与えられれば、過去を囚われるものではなく思い出として、心にしまっておけるだろうにという足掻きが、そんな思いを起こさせるだけかもしれないけれど。
でも一点わからない部分があって、それは第2話「コスモナウト」の最後、貴樹はなぜ夢で明里の顔を見られたんだろうかということ。既に連絡も途絶え、心の奥底ではどうあれ少なくとも表面上では、もう終わったことと自分に言い聞かせていただろうに。だからこそ夢で少女の顔を見れなかったんだろうに。惑星探査機に思いをはせる中で、閉じ込めきれなかった想いが漏れ出してきたんだろうか。それに対して貴樹がなんら行動を起こせなかったであろうことは、歯がゆくはあるけれど、自分と照らし合わせれば、悔やみつつも納得してしまう。
新海誠の「秒速5センチメートル」。それは私にとっては劇薬で、でも惹かれずにはいられない、そんな映画。
人より大きい私の性器を事もなげに飲み込み、慣れた様子で腰を振る小さな体躯の少女。いい時代になったものだと昔のことを思い出す。
30年前。少子化問題が臨海点にまで到達していた。しかし、どの政策も功を奏さず、手詰まりにあった政府は、ついに劇薬を用いた。給付だ。いや、少子化対策の初期にも給付はあったから、正確に言えば給付ではない。給与だ。生殖を職業として募集することにしたのだ。当然反発もあったが、どの政策も次々に失敗しており、もう打つ手はなかったので、予想よりは少なく、暫定的に3年間施行されることとなった。しかし、効果は1年目から現れた。予想を大きく上回る結果か出たのだ。しかも、1年目による準備不足の結果があっても、である。
具体的に言えば女性の生殖者が少なかった。1年目ということで、応募者が少なかった。年齢的、肉体的な条件もあったが、それ以上に倫理的な側面、マスコミによるバッシング、世間からの蔑視などにより、少なかったのだ。だから、男性も女性も生殖が可能であると診断されたものは全員採用した。
生殖は女性が妊娠しやすい排卵日の1週間前後、俗に言う危険日、に集中して行われた。男性はその日までに射精を禁じられる貞操帯をつけられ(これは精子が薄まることを危惧するというよりもむしろ性欲を高めるという目的があった)、その日までは何があっても外すことはできなかった。そんな男が数十人、1年目の男性の人数は67名、生殖者の女性に次から次へと、1週間に渡り、精を注ぐのだ。しかも毎月。妊娠しない方が難しい。現に1名の女性を除き全員が妊娠した。しかし、女性生殖者は男性以上に倫理的な側面で躊躇が大きいせいか、17名しか集まらなかったので、確率で言えば大成功だったが、数で言えば必ずしもそうではなかった。
この成果を受けた政府は本格的に乗り出した。女性を、女性の数を、とにかく増やそうとした。まず、待遇を今まで以上に良くした。数を増やすということで給与をみだりに上げるわけにはいかなかったので、環境、生活環境や税制面での免除、女性生殖者に対する扱いなどの待遇を改善した。次に、マスコミによって、イメージを変えようとした。卑しいとされるが、生殖のどこが卑しいのか。むしろとても尊いではないかと。そして、教育にもその考えを取り込んだ。反発もあったが、国を維持することが難しくなるまでに下がった出生率を前に、今までの倫理的慣習のみを理由に反発することは難しく、国会でなんなく採用され、次の年度の教科書に載ることとなった。
成果は徐々に現れ、生殖者に対する蔑視は薄れ、女性生殖者は順調に増え続けた。男性は女性ほどの人数はいらないので、精鋭を、より精子が強い者を、少数ずつ増やしていった。妊娠率は毎年95%を超え、全体の出生率にも影響を与える程になった。
しかし、順風満帆とはいかなかった。非生殖者の男性が不満を持ち始めたのだ。セックスばかりしているやつらに、俺たちが働いて稼いだ税金を払われるのは納得がいかないと。政府は生殖者たちの苦労、行動が制限されたり、精子の数や生命力が足りないと解雇されてしまうこと、などを説明したが、彼らの溜飲は下がらなかった。時の大臣が、全女性を共有財産化しようなどと馬鹿げた発言をして辞任に追いやられたが、結果としては同じような方向で解決された。妊娠率は95%を超えていたが、中には先天的な理由で妊娠しにくい女性がいた。その5%の女性を、非生殖者の男性たちに開放したのだ。教育が浸透していたせいもあって、多くの女性が、自立しよう仕事をする女性を除いた多くの女性が、生殖者に応募するようになっていたので、実際には大臣が言ったことと似たような状況であった。
そして今。今の子は生まれたときから生殖者という職業があり、それは尊い職業とされている中で育ってきた。門戸も初潮が来てから、妊娠が可能ならば、生殖者になることができ、初潮前にも生殖者用の学校ができたので、訓練を受けた子が多くなっている。今、私の相手をしている少女もその一人だ。
人より大きい私の性器を事もなげに飲み込み、慣れた様子で腰を振る小さな体躯の少女。
本当いい時代になったものだ。