はてなキーワード: 亀井とは
矛盾はしないかもしれないが、どう考えても一般的なフィクションという語の用法とは違うね。
「昔々、太郎と花子というものがおりました。太郎と花子は愛し合い、結婚し、子供を作り、そして死にました。おしまい」
思考実験として、こういうフィクションを誰かが書いて発表したとしよう。
日本の歴史上、太郎と花子という恋愛結婚をして子供を作ってなくなった夫婦はたぶん何組もいただろう。
その現実の一致/類似の発見をもってその物語はフィクションからノンフィクションに変化するのか? 普通はそういう使い方をしない。
むしろこの作品が仮に偶然に現実世界の特定人物名等と一致したとしてもフィクションであることを主張するために、「この作品はフィクションです」という注意書きはあるんじゃないのか。
これは純粋な思考実験だが、もっと長い物語で、現実と多少の齟齬があっても、それは脚色だ、と言い張ることは可能だろう。
たまたま捜査一課に十津川と亀井という名の実在警部と刑事がいて、たまたま西村京太郎作品とどこか似た事件を解決していたとして、それで西村京太郎作品がノンフィクションだったということにはならない。
国民新党の亀井静香代表代行は25日のテレビ東京の番組で、河村建夫官房長官が衆院解散の時期をめぐり「公明党を無視できない」と発言したことについて、「自民党は(公明党の支持母体の)創価学会の意志を無視しては政策も選挙もやれない。実態は自公政権じゃなくて公自政権だ。自民党は麻薬を使い過ぎた」と痛烈に批判した。
亀井氏はまた、民主党の小沢一郎代表の進退に関して「小沢さんはけしからんという空気がつくられ、それを払しょくすることは難しい。政権交代のために身を捨て、党のために身を投げ出すべきだ」と述べ、自発的辞任を改めて促した。(2009/04/25-12:59)
まるでこの国の害虫であるかのように(実際否定できないけど)言われっぱなしの創価学会ではあるが、こういった言説を表立って批判する学会信者を見かけないのは非常に不気味だ。考えれば考えるほど、オウム真理教とは違うどんよりとした得体の知れない不安感に襲われる。
俺も批判されて反論しない事は時々あるけれど、そういう場合って批判そのものに対する反論が思いつかなかったり、詰め将棋みたいに自分が論破される事がわかりきっていて、それでも自説を曲げる気が無い場合が多いんだよね。だからこそ反論しない信者に薄ら寒い恐怖を感じる。
「創価学会信者がお手盛りではないメディアに露出して創価学会批判に反論する」というシチュエーションの少なさも、やはり創価学会の戦略の一部なんだろうか。