はてなキーワード: ソーカル事件とは
『教養的にこうですああです』をアレルギーみたく嫌うのはどうかと思う。
それにこの事についてピンポイントに解説をした本なんてそうそうあるものじゃないだろ。
しかも調べるための糸口はたっぷりあるし、ご丁寧に「『ソーカル事件』でぐぐるといい」と書いてあるくらいだから本としてまとめられたものを読む以前の問題だと思うぞ。
幸い「日本語は論理的でない」というトンデモさんが出てこない(日本語が論理的でなかったら学術書の和訳ができるはずがないだろう)ので少し安心しているが、それでも「日本語は情緒的」だとか「日本語は曖昧」だとか「日本語は回りくどい」言ってる人が多いので溜息。
そういうこと言ってるお前ら、どれだけ日本語以外の言語知ってるのかと。
お前らが日本語の「欠点」が見えやすいのは、お前らが日本語をよく知っているからだけの話。実際は他言語でもそういう言い方はいくらでもある。
日本語以外の言語で情緒的だったり曖昧だったり回りくどかったりする表現が可能なことは、ラカンだのなんだのの訳のわからん衒学的なポモ文が、明晰と言われるフランス語発祥であることからもすぐにわかるはずだ。「ソーカル事件」でぐぐるといい。あれはフランス語や英語における、言語の曖昧さを駆使したハッタリの実体をよく暴露したものだと思うよ。
ついでにいうと、言語の機能の話をするとき、文法・記法と語彙の問題がゴッチャにされる傾向があるのはなんとかならんかね。プログラミング言語で言えば前者は構文や「機能」、後者はライブラリに相当するわけだが、大抵のプログラミング言語がチューリング完全であるというのと似たような意味で、日本語と他言語の能力は等価であると考えて差し支えないだろう。
ただし日本語の語彙体系は和語と漢語(和製漢語含む)と西洋系外来語がぐちゃぐちゃになってわかりづらいことは確かだ。文字体系も同様。このため、書き言葉において日本語は非常に学習が難しい言葉とされているのは確か。
とはいうものの、語彙体系の煩雑さは英語だってかなりひどい。ゲルマン系・ラテン系・ギリシャ系がぐちゃぐちゃ。しかも、selectionとelectionみたいに、もともと同じ言葉が生のラテン語とフランス訛りとで違う意味を持ったりする。また、書き言葉が難しいといっても中国語より簡単なのは明らかだし、日本語の書き言葉の学習は中国人から見れば困難ではないはず。そして日本語の発音体系は非常に単純かつ標準的なので、日本語は話し言葉として見ればかなり簡単。
そういう意味で日本語はごく当たり前の言語。今まで挙げた要素すべてで日本語より明らかに効率的な言語はたぶんイタリア語とスペイン語ぐらいじゃないか。
あと、「漢字は情報圧縮」と言っている人へ。漢字という文字が仮名文字やアルファベットよりはるかに複雑であることは一目瞭然であり、一文字当たりの情報量が多いだけとも言える。文字数が減ったからと言って情報を圧縮したとは言えないぞ。
それから、敬語は日本語独自のものではない。英語の敬語だって難しいぞ。謙譲語も尊敬語も丁寧語もある。ある程度「話法の助動詞を使う」という原則はあるが、細かい表現はいちいち覚えていくしかない。
私が元増田だ。君が噛み付いた記事は私のではない。
しかし、
とか、
だの、
だのと、ずいぶんと喧嘩を売ってくれるじゃないかと思うのだが。
以下は蛇足。「頭のいい人は」云々の議論とは絡めないでいただきたい。
そもそも、数学が「人間の思考の一部を記述する言語」というのは自明な話である。そして、それは哲学屋から偉そうに言われる話ではない。たとえば、ラッセルとかヴィトゲンシュタインというのは、元々ヒルベルトという数学者の研究を受け継いだ数学屋なのだよ。彼らの哲学は、数学の一分野でもある、あるいは数学から派生したものなのだ。哲学が数学の基盤に常にあるなどと思わないでいただきたい。逆もあるのだ。
それからもう一つ。これも蛇足。
これかね?柄谷なんて門外漢に指摘されて始めて気付くような話でもあるまい。ちなみに、柄谷は無名ってこともないだろうが、どっちかといえば敵視されるんじゃないのかな。事情は「ソーカル事件」でぐぐればよい。
追記
トラバが変なところについてしまったが、http://anond.hatelabo.jp/20071009000754の人は気にしないで頂きたい。トラバの誤爆である。
こちらを書いたものです。
http://anond.hatelabo.jp/20070825012540
こういう煽りはひどいなあ。全部誤解なんだけどさ。
特殊で難解な技術が幅や深さを規定するわけじゃないんだよ。
そういうことではありません。一つの分野について一通りのことを知るために必要な労力が違うと言っているのです。多分、あなたと私では「幅」と「深さ」の定義が違うのだと思うが、
早い話、数学科では卒論がないところが多いです。東大や京大でもそう。なんでかというと、「書けない」からです。必要な知識が多すぎるから。一方、文学部あたりだと卒論を学会誌に投稿することも珍しくない。
あーでも、今気付いたけど、これは理系でも理論系と実験系だと同じような違いがあるかもしれないな。確かに、理論系の研究しか頭になかったことは認めましょう。
経済のことに言及していないのはその後で書いたとおり。
まず、問題になっているのは学問としての特徴ではなく、学生時代を有意義に過ごせるかどうかですよ。それは元記事から読んでもらえばわかると思いますが。
「研究意欲のない学生」という言い方にバイアスを感じなくもないですが、とにかく典型的な学生像を挙げています。別に、研究に生きるのが唯一の正解じゃないんですよ。
勝手にとおっしゃられましても、評論と学問が区別されてるというのは常識でしょうに。周囲の大学院生レベルの人に聞いてごらんなさい。まあ、「ソーカル事件」みたいなこともあるみたいだし、粗雑な議論が社会的に「学問」扱いされてることもないわけじゃないのかもしれませんけどね。でも、ああいうのが文系の堅実な研究とは誰も認めてないと思いますよ。