「級数」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 級数とは

2009-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20090324170941

いや、あんまり分かってないと思う。考えながら書いてる。

定義上」ってどういう定義なのソレ? 元エントリに提示されてる条件だと、これで反論は十分だと思うんだけど。人間のスケールだと無限を直接的に定義できないってのが論点なのかしら。

ゼノンパラドクスにしても、無限回のステップが全て同じだけの長さの時間に行われるわけじゃないことから、やっぱり等比級数の話を持ち出してカタがつきそうな。

ゼノンの頃は,無限項をもつ等比級数の和が有限に収束することが知られていなかった,とかそういう問題じゃない。有限に収束したとしても,ゼノンパラドクスパラドクスとして成立する。あの話のポイントは,無限ステップを含む過程が有限時間に終了するなんておかしくないか,というところ。

考えてみればいい。亀との距離が半分になるたびに,アキレスが1,2,3と自然数を数えていくとする。亀を追い越したとき,アキレスが口にする数字は何か?

2009-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20090218175329

もちろん別だけど、信用創造も理解できないようじゃマクロ経済政策の良し悪しなんて判断できないと思う。

個別の計算テクニックは比較的どうでもいいんだけど、多変量解析的なモノの見方(というと仰々しいけど)とか、そういうものはどうしても必要だと思う。

最低限、無限等比級数を理解できるくらいであれば、素養としては良いかなという程度の意味だ。

http://anond.hatelabo.jp/20090218174246

そこまでいくとちょっとハイレベルすぎるから、それは想定してないな。

もっと基本的な、例えば信用創造で見掛け上の預金の増え幅を計算する際に、預金準備率を項比とした無限等比級数が出てくるけど、そういうのを違和感無く理解できるレベルって感じを想定した。

2008-05-14

http://anond.hatelabo.jp/20080514200043

そりゃそうだけど、そのストレスだって根本原因を取り除くことはしないわけだから、

その解消手段としての消費行動をするための労働によって、労働由来のストレスが発生するよね。

無限級数だと思えばパラメータ単位労働当たりストレス発生度合とか)によっては収束するんだろうけど。

それが-∞に発散しちゃったりする人は自殺しちゃうんだろうなぁと今思ったw

2008-03-14

http://anond.hatelabo.jp/20080313203527

そーね、オフセット計算に入れてなかった。これは元記事の人もだが。

まあどっちでもいいのかもしれんけど、級数的な部分には注目したいところ。

もともと借金の話だろ? 利子が膨れ上がるのを避けるために利子分だけ返し続けて、

元金が返せないまま搾り取られ続けるってよくあるパターンを考えるとね。

2008-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20080313140938

いや、借金の場合は総額が問題なんだから級数だろ。

http://anond.hatelabo.jp/20080313122935

なんで級数

級数って総和だからローン地獄がどうのっていう話なら等比数列であってるんじゃね?

http://anond.hatelabo.jp/20080313121625

数学屋ぶって大見得きたっところにツッコミいれさせてもらうが、この場合は「等比級数」だろう。

多分、言葉尻で数学用語使えなくても、ほとんどの人は鼠算式という比喩表現の意味くらいは知ってるだろうがな。

2007-03-19

二次創作と所有願望

二次創作をする」という行為には、自分のコードにある作品を置き換えて表現しなおすことである創作物を所有したい、という願望が付いて回っているように思う。しかし、「二次創作」の存在加速度級数的に増加すると、ある創作物の二次創作全体を自分の視野におさめることが不可能になる。つまり、各個人が所有欲を満たすために行った創作が、結果的には所有願望の達成を不可能にしてしまう、という帰結をもたらすということだ。

それでは、このような状況下でもある創作物への所有願望を諦めない場合、どのような行動の選択肢があるのだろう。

ひとつ思いつくのは、「どのようにすれば」ではなく、結果的に「そうなってしまう」ことを目指す、という方向性だろうか。ソクラテスに対するプラトンのように。ヘーゲルに対するマルクスのように。ある創造物を解釈する際に無視できない参照項となりうる自分というものを、重厚な解釈の呈示に加えて、政治パフォーマンスも駆使して積極的に打ち立てる、という方向性。これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』における、谷川流京都アニメーションないし角川エンタテインメント関係に置き換えても良い。アニメ版ハルヒ』ないしその副産物であるメディアミックス商品は、もはや「涼宮ハルヒシリーズを解釈するにあたって、谷川の手によるテクストとほぼ同等に扱われてしまっている。これらはどれも「結果としてそうなった」のであって、最初からそうなることを確信し、目指されたわけではないだろう。

……う。なんか結論らしきものが酷くつまらない話になった。とっかかりは悪くないと思ったんだけど。まあいいや、うp

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