はてなキーワード: 立方体とは
まったく役に立たないから参考にするな。
時は戦国弥生時代。氷河期なんてちゃちなもんじゃねぇ、もっと恐ろしいモノの片鱗を…の時期に大学4年生の俺。
もうその時から就職活動はしてなかった。
つーか、3年生の時から就職活動するなんて信じられず、どんどん届く立方体ぐらいになっちゃってる就職雑誌に恐れおののく。
失敗。
行きたかった研究室に研究生として潜り込み、大学院試験勉強を1年する。
大学院入学。
やっぱり就職活動するつもりなし。
このまま大学に寄生できればいいなーとほのかに何の行動も起こさずに考えていた。
で、研究室のOBが会社見学に来ないか?というので、弁当とテレカと交通費に引かれて遊びに行ったら、そのまま入社試験を受けさせられて、1回本社で面接を受けたら入社が決まってた。
漫画絵であるが、絵を描くのが好きだ。絵を描き始めてからもう15年近くになる。そしてここ1、2年でようやく結局のところ絵というのは想像力によって支えられているのだということがわかってきた。デッサンにしろ構図にしろ表現にしろ、みんな基礎は想像力なのだ。
たとえばデッサン。デッサンの良し悪しというのは頭の中にどれだけ精緻な3次元モデルを持っているかによるのだが、その精緻な3次元モデルを頭の中に展開するには相当想像力が豊かでなければならない。頭の中に立方体を思い浮かべたあと同じようにして人間を立体的に想像しようとすると、このことがわかると思う。
構図だって、なんとなくこんな構図の絵を描きたいと思っても、それをより精確に絵として表現するには、なんとなくではなくかっちりとどういう絵にしたいのか想像しなければならない。
表現も、そもそも何を描き表わしたいのかは想像力によるしかない。
絵を描いていて、同じような構図が続いたり右向きより左向きの絵のほうが描きやすかったり背景が描けなかったりするのも、結局のところ想像力の欠如が原因なのだ。描けない、ということは多くの場合技術的に無理だというよりも、そもそも想像が出来ないせいなのだから。
そして想像力の良し悪しは天分のものだと諦める必要はなく、絵を描くことで十分に鍛えることが出来る。そのためには、自分の想像力を少し超えた絵を描くことが必要だ。背景を入れてみたり人物を絡めてみたり、複雑な構図の絵を想像してみたり。どう描けばいいのかわからなくても、とにかく描いてみるのだ。考えるのだ。思い浮かべるのだ。それを続けること以外に絵が上手くなる方法は無いと思う。
よし、これからも描くぞ!
私の人生において豆腐という存在は真白き立方体という以上の意味を持って私の頼りない自我の上に重く圧し掛かっている。それはあたかも神から下された啓示のごとく、あるいは母親の乳房のごとく、避くことかなわぬ圧力となって私を憔悴させる。あの淡白な味わいのどこにあれほどの怨念が込められているのだろうか。豆腐の何が私を畏怖させるのだろうか。私には分からない。分からないながらも私は豆腐を食べる。おそろしいのである。どす黒い醤油に身を浸したあの白い怪物がおそろしいのである。ただの大豆の塊が圧倒的な質量を持って私に迫り、私はただただ食べることしかできない。豆腐とはなんだ、神か、悪魔か。いやおそらくはちっぽけな人間であるのだ。豆腐とは己が身を写す鏡にすぎないのだ。おお、豆腐よ、その絹織物にも似た柔肌を
もう無理。