はてなキーワード: 生態系とは
うーん、理屈ではあるんだけど、あなた自身が「英語や中国語を教えろ」って言ってたことと衝突しないかな。実際、英語とか中国語とか、それから高校レベル以上の数学とか理科とか、あとは歴史とか倫理とかでもそうだけど、学校で学んでも実社会で使ってる人なんてそんなにいないでしょ。
矛盾はしないさ。現在使われている言語(つまり、英語、国語、数学、あるいは今後は中国語なども)を習得することは、それ以外の学科を学ぶ基礎になるでしょ。だから、優先的に学ぶ必要がある。まず、国語の読み書き能力が無ければ、数学や理科社会も理解できない。英語ができなければ、英語で書かれた論文や新聞記事やネット上の情報は読めない。今後は、英語に代わって中国語がそういうポジションに台頭する可能性があるから、中国語も習ったほうがよいかもしれない。対して、その他の理科や社会などの科目っていうのは、英語や国語、数学といったリテラシーさえ学んでしまえば、あとは独学でもどうにかなってしまうものだ。だから、学校で強制して学ばせるものとしての優先順位は劣る。
これは半分当たってる。半分違ってる。まず違ってるところから説明すると、エリートって、「選ばれた人」でしょ?「選ばれた人」は、ある特定の価値基準で「選ばれた人」なわけだ。ある特定の価値観で競争したピラミッドの頂点にいる人が「エリート」。そういう人を生み出すための公教育なんて、くそ食らえだとおれは思ってる。当たってるのは、「基礎となる教育を」っていうところ。色んな人が色んな状況や価値観のもとに生活していて、色んな能力を持ってるのがいいとおれは思う(一握りのエリートがピラミッドの上に立ってるイメージよりは、生態系の網の目のイメージね。)。だけど、最低限の基礎は共有してる必要がある。それが読み書き(聴き話し)能力。数学とか英語とか国語とかのね。(もっと言うと、平面や立体の造形技術や、プログラミング能力も、「読み書き能力」として、あれば良いなと思う。)こういったものさえあれば、全然畑違いの人とでも、コミュニケーションは成り立ちやすい。それに、学校を卒業した人がどんな分野に進もうと、独学するための基礎が固まってるから安心でしょ。
古典が知的権威であるって言ってるの。つまり、古典を知っているかいないかってのが、「教養があるかないかの踏み絵になっている」ってことね。
古典が知的権威なのは、まあ同意。でも、それを学ぶことを全員に押し付けるのはやめたほうが良いって言う話。その理由は前述したとおり。色んな方向に進みたい人たちが共通して学ぶべきものではないよ。強制されるのは最低限でいい。古典については必要ならやればいい。必要ないならやらなくていい。そこは個々人の判断で選択できるようにすべき。