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2007-12-04

今はまだ

仮の自分、仮の人生、まだ「理想の自分」「真の自分」「完成された自分」になるまでの修行中の身、だからまだ自分は不完全、今の人生はまだリハーサル、あるいはプロローグ……

みたいな気持ちでいたんだけどある時なぜか突然に気付いた。

今のこの自分もまぎれもない「自分の人生」のひとときなんだ。いやこうやって書くとやけに陳腐に聞こえてしまうが、そうか、そうなんだ。別に今の自分は仮の自分とかじゃなくて、理想の自分に近づこうとしている、足掻こうとしている今この時もまさしく自分であって、自分の人生の一部なんだ。

だから別に「まだ仮の身だから」とか「まだ不完全だから」とか考えて、「だから今は楽しんではいけない」とか「今は○○があって助かっているけどこれはこの先の自分の人生にずっとあるとは限らないからこれに頼ったりしてはいけない」とか考えずに、ただ今の幸運を享受してもいいんだ。陳腐だけど、「今」を楽しんでもいいんだ。

理想の自分に近づくべく足掻くのはいいけど、その最中だって別に楽しんでいいし、紛れも無い「自分の人生本番」なんだ。

その事に唐突に気付いた。

そうか、もう今コレが人生本番なんだから……

仮だからといって友達づきあいをないがしろにしていたけれど大いに反省しなければならない。

今一瞬一瞬が「自分の人生」であると気付くと今までないがしろにしてきたものが急に大事なもののように輝き始めて驚いた。

どこか自分は、「今の自分は本当の自分じゃない。本当の自分設定に訂正するまで、本当の自分の人生は始まらない」と、文章にして改めて書き記すと恥ずかしい事を本気で考えていたが、これは間違っていた。

理想の自分に近づく努力はやめないが、そのために今をないがしろにするのをやめようと思う。

今を楽しんでもいいのだ。

2007-09-11

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070907/J

ちょっと事実誤認がヒド過ぎるな。

三枝の「新婚さんいらっしゃい」は素人いじり、と言っても綿密にリハーサルをした上で、面白い発言を取り上げてして、本番で言わせる、というつくりでしょ。これはいじっていると言うより、リサーチの問題という気がする。

笑ってコラえて!も素人をイジってはいないでしょ。素人の面白く編集されたVTRスタジオでうまく転がす役割だしなあ、所さんは。そういう意味では新婚さんいらっしゃいに似たつくり。

逆に否定的に取り上げられているダウンタウンは、素人いじりもかなり上手いし。

発明将軍ダウンタウン」とか、「四時ですよーだ」の電話コーナーとかとか。

大体、トーク番組に多くの芸能人をよんで、コント的な雰囲気を作った上で、協力して笑いを生み出そうという構成が、さんまが始めたことだしね。

さんま素人いじりなんてしたことあったっけ。

ああ、「あっぱれさんま教授」か。でもあれも素人コントの出演者に仕立て上げていく番組と言えなくもないような。

素人いじりが一番上手いのは、とんねるずじゃないすか、夕ニャンの頃の。

ここでも世代格差が生じているのでしょうが。

2007-04-16

滋賀県出身の自分が卒業式で経験したこと

http://anond.hatelabo.jp/20070416183656

これはどこの地域でもあることだろうけど、学校行事・式典で国家を歌わない。

小学校卒業間近となったある日、教師達は口々に「歌いたくないなら歌うな」と言ったり、「私達(教師)は歌う事を強制されている」と被害者ぶった口調で言ったり。

卒業式では、「国家斉唱します」→「起立してください」→「国家斉唱」という流れだったから、歌おうという人は立たねばならなかった。

歌うために起立した人には当然冷たい視線が送られたわけですけども。

それ以前に、「歌いたくなければ立たなくていい」と教師に言われていたので、立つ生徒は皆無に等しかったのを覚えています。


自分のときは小渕が首相だったかな、なのでこのエントリーを書かれた方と同じ年代だと思うんですけど、

滋賀県の某市立小学校に在籍していた僕は君が代斉唱のときに愉快な経験をしていて。ちょっと書き込みたくなったので増田ぽちっとな

??????

――この方と同じように、僕の小学校でも卒業式のリハ前に、教師が君が代っつーか戦争歴史を語って、「歌いたくないなら歌うな」ということを言っていた。

5年生の時だったか、1時間ぐらい割いて学年集会としてそういう「平和教育」をした記憶がある。

ただし、「国家斉唱」するときは「起立してください」がその前になく、ずっと立ちっぱなしだったので、

国歌をうたわないという意思表示をするには「立たない」ではなくて「座る」ことをしなければならない。

これがクセモノで、「歌うために起立」すると目立ってしまうけど、「歌わないために座る」ということは、

立っている人の中に埋もれるということになるので、まったく目立たない。

というか目立つ目立たないはどうでもよく、当時純朴まっしぐらだった小学生たちは教師たちの言うことを頭のてっぺんから足のつま先まで信じ込んでしまった。

そして卒業式リハーサル。「国家斉唱」と言ってまず座ったのが全体の1割(ちなみにこのなかに僕も居た・笑)、そしてそれを見て

立っているのが恥ずかしいと思ってしまった残り9割の一部が、斉唱中にばたばたと座ってしまった。

結局、歌い終わるまでに3割ぐらいが着席して、かなり慌しく騒がしいリハーサルになった。

リハーサルが終わったあと、先生国歌斉唱について苦言を呈した。

国歌斉唱の途中で座るのはよくない。騒がしい。中途半端な気持ちや、みんなが座っているからといって座るのはよくない」

みたいな注意だったと思う。

中途半端な気持ち」。確かに座ったほぼ全員の人が「中途半端な気持ち」で座った、のだろう。

戦争の被害が??とか言われてしまって、悪いレッテルを貼られたらそりゃもう、歌う訳にはいかないし、何より教師にとっていい子であるために、僕は座ったんだ。

だけどもし、今その時に立ち返って教師に質問できるとしたら、子供がそんな「硬い意思」を持てるのだろうかと僕は反論したい。

子供がそんな強い意志を持っていいのか。子供に覚悟決めさせることが教師の、大人のすることなのか。

子供は未熟で、あやふやな存在だ。だから大人を見て育つ。その為に教師たちのいる学校にも行く。

大人の模範である教師に「君が代には血塗られた歴史が??」みたいなことを言われたら、誰でも不安になってしまうんじゃないだろうか。

不安という予感はあやふやで不確かで、つまり「中途半端」な気持ちだ。

ホームルームで僕は思った(もちろん↑みたいなかしこまった考え方じゃなくて、なんとなくもやもやとした気持ち悪さを感じていただけだが)。

中途半端な」存在押し込めた責任は、先生たちにあるんじゃないか、っていうことを。

結局、当日の国歌斉唱では誰も座らなかった。

そして僕が卒業するとき、そういうトラブルは起こらなかったということを覚えている。

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