2010-12-19

ノルウェイの森を再読している。

これを初めて読んだのは大学一年生の頃だったか無駄自分に肯定感があって、それでも醜い気質みたいなのは底流していて、それが絶妙に混ざり合って本当に醜悪な人間だった頃だ。(今では自信だけをなくし、卑屈に醜い気質が溶け合った生き地獄主観を生きる人間になっています。この七年間に何があったのか!何もなかったけど、こうなるには充分の時間が経ったのだ)

初読の時、ふんわりとした「よかった」感覚はあったのだけど、内容は一切として具体的に覚えていなかった。それはいつもの村上春樹と同じように。読み終えた直後から内容が思い出せないのだ。

今回村上春樹小説を手に取ったのは、タイミング的に随分久しぶりのことで、一応大学一年という自分精神史的に輝いていた時代に読んだものだという記憶もあったので、すこしばかり腰を据えて、というか幾分力んでこの小説に臨んだ。そして分かった。そりゃあ当時の自分がこの作品に好感を抱く訳だ。

自分は他人とは違う、誰しもが一度は通る通過点なのかもしれないが、その思いを強く持っていた当時の自分には、この作品が非常にマッチした。世間一般からは浮いている、でもその存在は“ただ在る”だけで肯定され、少なからず魅力的な人たちが寄ってくるんだ。こんな桃源郷があるかってんだ。

今となっては、この作品の傲慢さがすごく目につく。自分自分の好きなように生きていく、孤独に悩むことはない、こちらが動けばいとも容易く他人を懐柔できる、そしてその人たちは単なる背景として存在しているだけで、そう、それは完全にその人たちを「見下して」いるのだ。ある人が他人と接しようとするときに持っている“トライ精神(えいやと飛び込む度胸)”とか、一緒にいたいと思うから好感をもたれたいからする努力とか、全てを自分への陶酔に還元しているだけで、他者への思いやりなど一片もなく、それでもそういう生き方が魅力的に捉えられ、時たまナルシスティック孤独に浸る(←完全にパフォーマンス)だけで、せっせせっせと慕う人たちが寄ってくる。

もうこりゃ最強でしょ。

そしてこれは、誰しもが当たり前に持っている願望のようにも思う。自分は世間とは違和を感じる、そして誰かに自分のことを分かってもらいたい。時には誰かから必要とされたい。不十分な人間かも知れない自分だけど、誰かに求められ、認められたいんだ。

村上春樹世界の住人たちは、その夢のような願望たちをいとも簡単に実現していくんだ。ナルシズムを漂わせながら、とても格好よく、いとも容易く。

謙虚さなど、一切ない。傲慢に存在し、周りを見下すだけの人間

だって自分は周りと異なっているように感じるんだよ。それに苦しんでるんだよ。そしてそれでも誰かと分かりあいたいから、外に向けて努力をして毎日懸命に動いているんじゃないの?そう思うんだよなぁ。

そんな風に、初めて読んだ時とはえらく作品のとらえ方が変わってしまったので、驚きのあまりこのように綴ってみた。今の自分精神状態はそりゃあもう完全に病んでいるから、これがどの程度一般的な意見なのか分からないけれど、こう感じる人っていないのかな。

と、まぁ、まだノルウェイの森の上巻しか読んでませんがね。下巻買ってこよう。

  • 俺がノルウェイの森を初めて読んだ時の感想もそんなんだったなぁ。多分高校三年生だったと思う。 ホントに高校やらなんやらそういうのに溶け込めなくてしんどかった時期だった。彼...

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