2010-10-04

人事担当の本音

学歴社会の賛否について、ある掲示板でかなり熱い議論になっていた。

金持ちはいい学校へ行ってエリートの道を進むけど、お金がなかったらいい学校に行けず就職先も限られてくる、などという意見が出される。

それに対して、高学歴サイドは、そんなのは嫉みに過ぎないとか、こっちだって楽じゃないんだとかいろいろ反論する。

正直言ってこういう論争はどうでもいいのだが、学歴だけで人を選ぶことの多い社会構造は確かに問題ありだと思う。

人事の側に回ったことのあるやつなら、学歴だけで人材を引き抜く方法はあまり実用的でないことにすぐ気づく。

こっちがほしいのは、有能な人間というより有用な人間だ。

で、その有用な人間というのがなかなか見つからない。

知能指数は高いのに物覚えの悪いやつ、妙なこだわりを捨てようとしないやつ、いろいろいる。

使われ上手で元気があって、どんな人とも円満にやっていける若者、そういうのがほしい。

ある程度の知識の不足だったら入社後教育すればいいだけのことで、元気とか若さとかいうのは教育できるもんじゃないから、そういう素質のある人材を引き抜けるのが理想だ。

使われ上手なやつは、使う側のことを考えて、いろいろ気を利かせて整った形で仕事を提出する。

そういうやつは上司から愛されて出世しやすい。

出世して人を使う側に回ると、これまたうまいこと部下をまとめたりする。

上からも下からも慕われる人間になる。

もちろん、こういう健全新陳代謝が起こっていなくて、昇格させるべきでない人間を昇格させちゃうような組織もままあって、

そういう場合には甚大な被害が生じる。

そもそもの人事担当者がいい加減な会社とかはもう破滅的だ。

それはともかく、今の社会システムの問題は、本当にほしい人間をどういう客観的な判断基準で選ぶかを、採用する側が分かっていないことにあると思う。

採用不採用の判定について、社会的に説明を求められるようなことも増えてきた。

「なんとなく直感で落としました」とかいう説明では相手は満足しない。

でも、実はそれこそが本音だったりする。

しかも、この経験からくる直感というのはけっこう当たったりする。

しかし、世間的にうまく説明がつかないからペーパー試験の点数で上から採っていくしかない、と妥協してしまったりする。

民間より公務員のほうが状況は深刻だ。

まぁ、公的なところが人間を採ろうというとき、客観性というのは普通以上に重視される。

そうでないと人権問題だ何だと騒がれたりする。

人相が悪いから落としました、とかいうことも公的な場では言えない。

結果、使いにくい人間が役所に集まったりしてしまう。

先日、ある公立の専門学校に足を運んだのだが、

若い男の先生名刺差し出しながらへらへらしていて、初対面なのにその応対は何なのかとあきれてしまった。

でも、こういうことはよくある。

とにかくもどかしいのは、今のところ、使える人間・使えない人間を客観的に振り分けて、世間的にもその説明が受け入れられるような方程式が見当たらないということ。

もちろん、そういう確立された判断基準を持っている優秀な民間企業はちらほらあるようだけれど、あくまでそれは内規であって、それを外部に公表したりはしない。

結局のところ、結論は、学歴社会の弊害は採用する側もよく分かっているが、明暗と言える対案が今のところない、ということ。

有用な人間採用され出世するシステムが一度受け入れられれば、物事はけっこう順調に運ぶんじゃないかと思ったりする。

でも、採用されなかったやつ、出世できなかったやつを納得させるのには、相当強力な論拠でないといけない。

それさえ見つかればいいんだが。

最後に付け加えておくが、俺はアンチ学歴至上主義者ではない。

学歴だけで人を見るのは実用的でないが、知識はないよりあるほうがずっといい。

つまり、有能かつ有用であれば、それが理想人材だ。

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