昼休み残り10分。僕は「トイレ」と言い残すと友達たちから外れた。教室の出入り口で振り返ると、4人は楽しそうに話をしている。さっきまで僕もそうだった。
個室に入ると携帯電話を手にした。タッチパネルを操作してTwitterのタイムラインを見る。まったくかみ合ってない発言が並ぶ。僕がフォローしているというだけで表示されている、絶対に僕に向けられていない言葉たち。
この瞬間に僕は東京につながっている。恥ずかしさを堪えて言えば東京にいる気持ちになる。この和歌山の片田舎でも。いやだからこそ錯覚できるのだろう。この中に知り合いは一人もいない。東京の中に和歌山はいらないから。
最初は有名人をフォローした。やはりTwitterを使う新進のクリエイターは東京ばかりだ。次にその人のフォローイングをフォローした。これで僕のフォローイングは60人くらいに増えた。
うれしいことにそのうち数人がフォローし返してくれた。これでもしかすると僕のTweetが、あの人に読まれるかもしれない! あの人の時間を一瞬でも占有するのかもしれない! そう判ると身震いするほどうれしかった。ただし「まだ」Tweetもリプライもする勇気はない。ああ和歌山にも面白いことがあればいいのに! 彼らの知的興味をひくような、刺激的な何かが!
僕が見られるのは昼休みと自宅だ。まさか自転車に乗りながらは見られない。昼休みでも没頭はできない。そんな「リアル生活」を切り捨てる危険は背負えない。負担にならない範囲の限界までを投入はしたくなるけど。
昼休みでも最後の10分が限界だ。終了のチャイムを聞くと僕は教室に戻った。
ある人が「100人フォローすれば生活が変わる」と発言していたので当面はそれを目標にしたのだが、あきれるほど簡単に達成できた。そのとおりTwitterを使い始めてからこれまでと比べて驚くほどの速さで僕の毎日が変わっていった。Tweetしないのだから半分だけしか使ってないけど。
タイムラインで話題がかみ合うことはまったくなかった。その1つ1つ、もしくは集合が僕にいろいろ考えさせた。これまで考えてもみなかったことについて。頻繁に発言している人は何を仕事にしているのだろう。ネット上の有名人だから会社員なのだろうと想像するが、曜日は問わず、時間も関係なく発言があった。東京はすごい。よくわからない人が成立できる。
またある人は140文字の制限のため、いくつもに区切られた発言をまとめてする。日中に。そして長い長いリプライを返す。まるで戦っているようだった。僕は140文字を超えるようなTweetはブログでするべきじゃないかなと思う。
「@~さんに会って」などを見るととてもうらやましかった。嫉妬した。「このリア充め!」なんて思ってみて自分がネット内にいるような気持ちになってみたりもした。間違ってもTweetはしないけど。そんなのは東京の中でしか通用しない言葉だろうから。和歌山の僕が使っていい言葉じゃないだろうから。
「●●なう」はすぐさまグーグルアースで検索する。あの写真は地図より東京にいる気分になれる。ただ東京から遠方になると「●●なう」とTweetしてしまうようだった。毎日が東京だとそんなものなのかもしれない。
だが、そこで僕は気づいてしまった。東京の人たちからみて僕の暮らす和歌山は珍しいのだということに。
結局僕はまだ何もTweetしていない。