今日、千葉のJR新浦安にある駅ビル「アトレ」のトイレに行ったらとてもひどかったので、以下の内容で問い合わせてみた。でも別に何も求めていないし、実際に便器が改善されるとは思っていないけど、俺の悲しみをみなさん読んでください。(グロ注意)
本日 2008年1月28日14時40分前後にうんこがしたくなって、アトレ新浦安 1Fフード関連フロアのお手洗いにて、うんこしにいったんだけど、トイレがありえないくらい汚れていた。
3室あるうち、ひとつは故障中有の張り紙があったので、残りの2室(両方和式)を確認したところ、両方の便器からうんこがはみ出している状態で放置されていた。さらに1室はトイレットペーパーが散乱していた。
ありえなく無くない?
調べればわかる。その時間帯の清掃当番にでも聞いて欲しい。2個ある便器に両方ともうんこがはみ出ているというインパクト。きっと清掃員の方は記憶されているはず。
しかし、フードコートエリアにあるトイレがうんこまみれで放置とか!
アトレは管理が行き届いていて綺麗と信じていたからうんこしにいったのに、うんこはみ出てるとかありえない!
(>_<)
あとトイレが和式しか使えなかったことも憤慨、というかこの時代に和式って何よ!?
恵比寿や品川のアトレは洋式だしウォシュレットまでついているのに!
フードコートにあるトイレならば老若男女に配慮して、洋式化を進めるべきではないのか?
様式にすればうんこは、はみ出ないのではないのか!そう考えるがそこのところお聞かせ願いたい。
さらに言えば新浦安の和式トイレは水溜が「金隠し」の方ではなく、「落下点」に水がたまる構造となっているが、あそこにうんこをするとうんこ水が跳ね返って来るということは想像できなかったのか?
クリーニング出したところのスーツのズボンの裾にうんこ水が跳ね返ってきたよ!
最悪っだっ!
打ち合わせの前だったのにうんこ水とか!ありえないっ!
トイレの構造としてあり得ないと思うが、それはTOTOのせいだと言うことにしておこう。
ともかく、トイレの清掃・チェック、および便器の洋式化をぜひ進めていただきたい。
以上!
http://anond.hatelabo.jp/20080126190445
責任?
継続的に支えあう?
好きって気持ちと抱きたいって気持ち以外になにか必要なの、恋愛って?
結婚と結びつける必要はないし、支えあうのがいや(ていうか頼られるばっかなのはイヤ?)なんだったら、結婚だの責任だの気にしなきゃいいのになー。
一緒にいて楽しい、セックスして気持ちいい、だけじゃ何でダメなのかなぁ・・・考えすぎちゃう?
ただ、彼が私と恋愛をしたいんなら、とても面倒。一回り下に、継続的に支えあう関係を求められたら、そこまで責任を取れる自信はない。
「リア充乙」
今日はやたらと、このワードが頭に浮かぶ場面に遭遇した。
ちょっと体調悪いから栄養あるもの食べよう、と思ってちょっと高め(比較対象吉野家)のお店に一人で夕食に行ったら、回りはカップルばかりだったり。先月来たときはもっと一人客が多かったんだけど…。
近くの席で唯一カップルでなかった二人組が、オタっぽい会話を繰り広げる女子高生だったんだけど、それがまた悪かった。カップルなら得意のフィルターで「何かいるな」程度に無視できるんだけど、話の中に興味あるワードが散らばってるだけに無視しきることができなくて、気になってしょうがない。
オタっぽい話題で盛り上がっている人達を見ると心が沈むのはなんでだろう。僕にないもの、同じ話題で盛り上がれる仲間を持ってるからか。
オタ話で盛り上がれる仲間がいる、ってのはどうみてもリア…
おっといけねぇ、まだ負けないぜ。
その点だけで十分女性らしい気がするが。
仕返しをして同じ思いを味あわせてやりたいの?
そんな不毛なこと考えるより、すっぱり別れたほうがお互いのためにいいよ。いや、そんな助言しなくてもちろん判ってんだろうけどさ。
いっそのこと彼女のカネ目当てに、肉体で稼いできた小金をパーっと浪費するのを生きがいに、これからは同棲続けるのもよいかもしれないなあ・・・
同じ仕打ちを与えるには,俺が精液でも売ればいいのか?
そんなことは無い。
1人会社で社長しかいなければどれも簡単にクリアできる問題だ。
・存続させる意義がない
これ一行でいいのではないだろうか。
――だから、われわれにとっては、音楽の場合には、実際事情はそのとおりになっている。すなわち、まず最初、ひとは、ひとまとまりの音の流れや旋律全般を、聴くことを学ばねばならず、それを聴き取り、聴き分け、一つの生命あるものと独立して切り離して限界づけなければならない。次に、その音の流れや旋律が聞きなれないものであっても、それをじっと我慢して聴く努力と善意とが必要である。それの目差しや表情に対して辛抱づよくつき合い、それの奇妙な点に対しては優しい気持で接してやることが必要である――。そうすれば最後には、われわれがそれにすっかりなじんでしまうような瞬間がやってくる。そのときには、われわれはその音の流れや旋律を待ちうけるようになり、それが聴けなくなったりしたらさぞわれわれは淋しい気持になるだろうなどと予感したりする。そこまでくれば、今度はもう、その音の流れや旋律は、その迫力と魅力を発揮し続ける一方となり、ついにはわれわれが、それの言いなりの、それに心を奪われた愛好者となって、その音の流れや旋律以上によいものなどもはやこの世界から望みもせずに、ただもう繰り返しそれだけを望むような愛好者にならずにはいない結末となる。――けれども、ただたんに音楽に関してだけ、こうしたことがわれわれに起こるのでだけではないのである。われわれが現在愛しているあらゆる事物を、われわれは、ほかでもない、まさに右のような具合にして、愛するよう学んだのである。われわれはいつも、われわれの善意に対して、つまり、見知らぬものをわれわれが辛抱して甘受し、公正に扱い、優しい気持で接することに対して、酬われるのである。それも、その見知らぬものが、徐々にその覆いを脱ぎ捨て、言うに言われない新しい美しさにおいて現れてくるという具合に、なのである――。それは、客人を遇するわれわれの暖かいもてなしに対する、その見知らぬものの感謝である。自分自身を愛するものもまた、このような道程をとおって、おのれを愛することを学んだはずである。というのも、それよりほかには何の道程も存在しないからである。愛というものさえをも、ひとは学ばなければならないのである。
Friedrich Wilhelm Nietzsche著『悦ばしい知識』より
あれは所謂西洋的表現で、向こうではキスは挨拶だからじゃない?この場合のキスって唇じゃないイメージだし。
というか、「勝利の女神が微笑む」に近い表現というか。
http://www.1101.com/kariya/index.html
「オリンピックの女神は、荒川静香にキスをした」は許されるけど
「オリンピックの女神は、荒川静香のあそこを触った」は許されないんだろうな。
何が違うのだろうか。
アニメについて。
剣や魔法はもういいよ。まったりゆったりの作風も別にいらない。
人生と心の機微を丹念に描いた作品が見たいのだ。
いやいや、題材がファンタジーだろうが何だろうがかまわないのだ。制作者の心意気が伝わってくるようなものが見たいんだ。
自分をそんなに贅沢な視聴者だとは思わない。年間にものすごい数のアニメが作られているはずなのだから、中にはそう言うものがあってもいいだろう。
途中、Bがあからさまに転向してる瞬間が目立っていると思うの。