すまん、増田違い。
「自分の体験談」として語ってる分には視点のブレはなかったかもしれないけど
三人称が使われるようになった後にも視点の統一が意識されてたとは思えないんだけど。
ちなみに世界最古の小説は源氏物語だと思っておけばほぼ間違いない。
それほどオリジナリティのある言葉じゃないのでは…と思ってググったけどあんまり見つからなかった。
06年の終わりごろから使われはじめたのかな?
おまえ自身も体験談的と書いてるが、俺もそうじゃないかと思う。
文章として構成というよりは、口で伝える形式のものだと思うが。
そこで、もっとも単純な自分の体験談を語ることを考えてみろ。
自分の体験談を語るときに、視点なんぞぶれるかね?
視点の固定ってそんなに大昔からあった技術だと思えんけどなあ。
眠れない時の薬は出せるけど決まった時間に起きれる薬なんかない
失礼ながら笑ってしまいました。確かにそうだ。でもホント起きれないのって切実ですよね。病気なんじゃないかとも思うけど、ただ甘いだけな気もするし。確実に起きれる方法ってのは無いもんだろうか。
あまりアドバイスをしてやれることは無いのだが。
帰宅時間が遊びのせいで遅いのなら、遊ばずに帰れ。遅くとも8時に帰宅。仕事で毎日遅いなら、何とか仕事を早く終わらせる工夫をしろ。それから昼休みは昼寝(女には難しいか)。15分でいい。それ以上だと寝すぎて頭がぼんやりする。夕刻の休憩があればそのときも仮眠。細かく寝るだけで眠りは深い。
人によっては1時間半ごとにおきてしっかりと目を覚ますことでREM睡眠(浅い)を減らし、NON REM睡眠(深い)だけにすると、眠りの効果が高いなどと言う人も居る。が、本当かどうかはわからない。
「異論は認める」
最近あちこちで見かけるようになりました。
独断と偏見で考えた意見を表明する際に、おまけのように付け加えられる一文です。
このことによって、異論がある者がこぞって自分の見解を表明し始め、そのことによって議論が深まるものです。
個人的には嫌いではない表現です。
ちょっとぐぐって調べたところ去年の12月あたりのログが最古?
元ネタかなにかあるのかな?
もう少し調査してみます。
オリジナリティある表現じゃないかな?
その割りに最近爆発的に使われだしたような印象あります。検索結果見ても。
http://anond.hatelabo.jp/20071115175041
フラッシュメモリってそんなに強度あるのかよ、という疑問だね。
というか、傷を見るたびに思い出すからちょっと書いただけ。こいつは容量が少ないのでもう引退させるから、感慨が出てきてさ。あんなこともあったな、と。
そうかー。そりゃそうなんだろうけど、でも今までは同じような暮らしをしていても起きれてたっていうのがまた不思議で。その疲れが蓄積されてきたってことなんですかねぇ。
書くのは楽しいが、読むほうはシビアに判断するよ。妄想を妄想として書いてあるのなら娯楽として読むこともあるが、妄想を理由として書いてあると、斧の用意をする。
他はともかく、これはどうかね?
まず、確実に読みやすくはないだろう。
視点は固定されていないだろうし、あちこちの描写に齟齬があるだろう。
何を言いたいのかわからないが、自分の車で踏んでみれば少なくとも一回は実験できる。
2人して頭をひねっているというのが、もう絶望的なんだが。人間は0時前に寝るのと寝ないのではまったく疲れの取れ方が違う。同じ時間寝てもだ。あと、4-5時間は決して十分な睡眠時間ではない。
私も今週は一度もまともに起きれなかった。
普通の時間(と言っても22時すぎ)に帰ったりしてるのに。
何故だろう。
というか、遅刻して怒られるのは当然だと思う。社会人として当然だっていうのは分かっている。でもどうやったら起きられるのか本当に分からない。「何もしなくたって毎日同じ時間に勝手に目が覚めるよー」なんて言ってる人を見るとなんかすごく理不尽さを感じる。
医者に相談しても、眠れない時の薬は出せるけど決まった時間に起きれる薬なんかないと言われた。本当どうしたらいいんだ。
まず、確実に読みやすくはないだろう。
視点は固定されていないだろうし、あちこちの描写に齟齬があるだろう。
構成なんて無いに等しいだろう。
内容は完全な創作ではない、おそらく自身の体験談的なものになるだろう。
体験談ではあるが、あちこちに誇張が含まれるだろう。
・・・これはまさしくケータイ小説の特徴ではないか?
あるいはこうだ。
あなたは超古代文明人である。
あるとき、いままで何も無かった場所に、新たな文明が発生していることに気づいた。
それは、自分たちの文明と比べると、笑ってしまうほど原始的な文明である。
あなたはどうする?
その原始文明が「より良い発展」をするように「矯正」するか?
それとも何も介入せず文明の発達を見守るか?
何百年ものあいだに研鑽されてきた現代文学と比べれば、笑ってしまうような出来だろう。
しかし、それを簡単に潰してしまっていいのだろうか?
あるいは、「正しい文法」とやらを教えて「矯正」してやることが、本当に正しいのか?
ほうっておけばいいのだ。
いずれケータイ文学は、現代文学とは違った発展を遂げるかもしれない。
どっちにしたって誰も困らないだろう。
ほうっておけばいいじゃないか。