2008-11-13

404 Blog Not Foundの書き手を採点する。再び。

404 Blog Not Found:日本語は誰のものか?

導入

日本語の場合はどうだろうか。

日本が沈没しても、生き残ることができるだろうか。

現状では不可能に近いほど困難なのではないだろうか。

結論

日本語日本国に閉じ込めておくのは、日本国民ならざる日本語人に対する不当な差別なのではないか。

[…]だからこそ、私は日本国日本語を「デカップル」しておきたいのだ。

一読して頭に残るのはなんともいえない疑問符がひとつしかないのだが、あえてもう一度読んでみた感想をだらだらと書く。

とりあえず、そんなに日本語を愛しているなら自分が私的なエッセイを衆目に曝せるほどの書き手かどうかをまず気にした方がいい。このエントリの独白は、一読すると要するに自分で問題をつくっておいてそれに憤っているように思える。

まあ好意的に読み取ればそうでもないのかもしれない。

これも水村の論旨を下敷きにした文章だと思うが、日本国から「デカップル」された日本語国語として保護することは難しいのではないかな、と思った。水村が言語ナショナリストであるという一部の見解に反駁していない(と思う)ところをみると、結局、これは水村と私は(国としての日本への関わりにおいて)違うのだ、という防御線を張っている文章なのかとも思える。だとすれば質の悪い言い逃れだし、書評家としての欺瞞と呼ばずしてなんと呼ぶ。

日本語を擁護するために言語ナショナリスト水村を持ち上げはしたが、私自身にナショナルな主張はない」

こういうことを小出しに書いているのだとすれば、恥知らずとして罵倒する価値もない。これでは水村があまりに哀れに思えてくる。

「国としての日本が滅べば日本語は滅ぶ」という認識が、「だから日本語の擁護には国語としての梃入れが必要だ」という水村への賛意につながるという心情は分からなくもないが、「でも日本国日本語は分けておきたい、私は日本と仲良くないし」というのはあまりに卑怯な態度じゃないか。言語植民地をどこかに求めるとでもいうのか。そんなことをしなくて日本語が生きられるということは、日本を離れてもなお日本語に生きる小飼自身が一番よく分かっているのだろうに。

むしろ「私の愛する日本語にネーションの息をかけるな」、あるいはそのように誤読される日本語論は批判せねばならない、というのが小飼の立場からのまともな書評であったはずだ。そして、それが水村の荒唐無稽な極論とともにいずれも批判し尽くされる、というのがおそらくまともな成り行きだったはずだ。

何よりも「日本が滅べば日本語は滅ぶ」という認識を素朴に表明している時点で、この男には日本語を擁護する気もそのために自分の何かを賭けるつもりもないのは明らかなように思える。

だから、極端だが少しばかり筆を折ってみることを考えた方がいいと言っているのだ。

無意味で不誠実な書評を垂れ流して心ある日本語読者を侮蔑するくらいなら、潔く身を退いた方がよほど将来の日本語のためになるということくらいは分かっているだろうに。

つまり自制ってことだよ。

大丈夫、御前が「弾筆」しても日本語は滅びんよ。

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