2007-04-02

ルサンチマン道徳について引用

ルサンチマン道徳とは、奴隷道徳だとか弱者道徳とも呼ばれているもの。以下、ルサンチマン道徳について色々引用

簡単に言えばルサンチマン道徳は、同情などといった、弱者や、抑え付けられてきた者や、落ちこぼれ知恵遅れの人達が、現実から逃げデカダンスに陥り、人類は皆平等であるべきと考え続け、苦の無い妄想の世界で高みに立って現実を否定して、楽になりたいという願望の元から成り立っています。

http://shinriofaku.blog78.fc2.com/blog-entry-37.html

弱者」の奴隷道徳は、「あいつは敵、迫害者だ」だから「あいつはわるい」ゆえに「あいつと対立するわれわれは正しい」という憎悪、他者の否定から悪をモデル化し、その否定、反対者として善をモデル化するとして、後者の善の基礎にある怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ。そこから奴隷道徳の善は、否定の意志、憎悪を常に隠し持っているため、抑圧的、欺瞞的、病的だとして批判するのである。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%E5%BC%D4%C6%BB%C6%C1

奴隷道徳とはキリスト教の考えの事であり、ニーチェに言わせると「汝の敵を愛せ」と言うのは非健康的なひねくれた考えだそうです。

その理由は、理想的なキリスト教徒が敵に復讐しないのは愛故ではなく無力故だからです。復讐したくてもできない悔しさを「自分は愛溢れる人間で、敵に対しても寛容な心を持ち下らない復讐などしない。ああ自分はなんて立派な人物なのだろう。」と思い込む事によりごまかしているに過ぎないというのです。要するに態度が美しくてもその人の心まで美しいとは限らないのです。

http://yachan.blogzine.jp/himajin_z/2006/03/post_8eab.html

弱さを嘘でごまかして手柄に変えよう

返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だとやつらが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます。)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分に持っている臆病さそのもの、…、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐することができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、おそらくは寛恕をさえも意味するのです。その上、『敵への愛』を説き――そしてそれを説きながら汗だくになっています。(p50)

http://semi.natura-humana.net/2006/ss/doutokunokeihu.html

「我々は悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは、暴圧を加えないもの、何人をも傷つけないもの、攻撃しないもの、変法しないもの、復讐を神にゆだねるもの、我々のように隠居している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の媚いであって、我々と同じく、辛抱強いもの、謙遜な者、公正な者の事だ」といって自らなだめる時、この言葉が冷静に、かつ先入見にとらわれることなしに聴かれたとしても、それは本当は、「我々弱者はなんと言っても弱いのだ、我々は我々の力に余ることは何一つしないから善人なのだ」というより以上の意味は持っていない。(p48)

http://semi.natura-humana.net/2006/ss/doutokunokeihu.html

  • よく偉そうに人に道徳を説教するオタクがいる。 しかも言ってる内容が現実離れしてるようなのが多いし。 あれってなんなんだろーなーと今まで思ってたけど、最近謎が解けた。 あれは...

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