2007-02-28

「頭がいい」のがいいのか?

「頭がいい」か・・・。確かに子どもと大人とでは指針が違ってくる。

大人の場合、「豊かな社会生活を送っている」ってことになるんかな?貧しかろうが、忙しかろうが、「豊かさ」を持つ人こそ、本当に能力の高い人間のような気がする。

計算が速い、何か国語も操る、というようなステイタスは外面的なものであって、別に結果論主義じゃないけれど、その人がいかに「豊か」であるか、ということを考えないでは意味がないような気もする。

東大生は頭がいい、というのは最早「子ども」時代の、ヌクヌクと温室栽培されていたときの指針なんじゃないの。綺麗な緑の葉をつけて、虫に食われぬ運や他の芽に負けぬ競争力を持ち合わせていく彼らは、もちろん特Aのシールを貼られて出荷されるべき存在なんだと思う。

だけど、そこに数多の他者が関わっていく「大人」時代において、単体としての出来の良さを全ての価値とするモノサシはありえない。社会の輪に取り込まれた以上、他者との関わりの中でしか人は価値を見出せない。「頭がいい」というのは所詮、出荷時の特Aシールに過ぎず、よりよい環境におかれる頻度の高さでしかない。家畜のエサになる可能性が比較的低いというだけの話だ。だから「頭がいい」というのが、彼の生きるコミュニティ内での市場価値にはなりえないということをはっきりさせないと、「頭がいい」シールを貼られた彼は孤独さの中でしか自己認識することができない。それは偽りの自己認識であって、社会の中では何の価値もない。「大人」の世界で「頭がいい」というのは、それほど価値がないということだ。むしろ、「頭がいい」というのは時に彼の意欲を高め、時にプレッシャーを与えるといった言霊でしかない。「彼は頭がいい」という人ほど、その言葉にどれほどの価値があるのかを知っている場合が多い。逆に、「俺は頭がいい方だ」という人ほど、その言葉の価値のなさに無頓着だ。

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