はてなキーワード: たかとは
ひと月くらい前の学級会やってた女性向け同人誌を男性が描いてて云々の時に「『男の描いた同人誌じゃ抜けない』をこんな長々と書いてんなよwww」的な反応を見たが
自分が好きなBL同人誌を性欲発散に使ったことがなかったので他の人もそうだろうと思っていたが、世の中のBL同人誌購入女性は推しカプの同人誌を性欲発散に使っているのだろうか?
推しカプの同人誌にR18シーンがあると嬉しいけど(なくても推しカプの同人誌は存在するだけで嬉しい)それって推しカプかわいい!!!!と思いながら同人誌を抱えて布団の上でゴロゴロする感覚だったから…
小学館含む原作者側がどれだけ振り回され、心労を負ったか、という点にフォーカスしているのか日テレ版で言うところのラリーの詳細が多い。
漫画家の芦原妃名子先生がご逝去されたことについて、改めて、先生の多大な功績に敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
重箱隅つつきなのはわかりつつ。報告書冒頭にはまずこれがあるべきですよね。
(日テレ版は報告書本体のリンク元であるプレスリリースには同様の記載があるが、肝心の報告書冒頭には記載していない)
日テレの2人目の対応者って上司やったんかよ!!!いやそんな気はしてたけどさ!!!
そもそも小学館側はきちんと担当部署だけでなく、各社員と上司を明示していてこの時点で日テレ版より分かりやすさが違う。
特に問題はないという意見を示しつつ、気になる点として、第 2 話脚本中に若い男女のメッセージのやり取りをメールでさせていることについて、今どきは LINE が普通ではないかと指摘したり
「今時のJKは短大よりも専門学校だ」という議論をできるドラマスタッフが、今時の男女のメッセージやり取り事情に精通していないなんて…。
また併せて飼っていたハムスターの逃走範囲に関するセリフについて、原作漫画の 100M 以内との吹き出しの記載を 200M 以内に変更した点にも疑問が呈された
(略)
ヒンズー教徒が多いインドでベリーダンスをするという点に疑問を呈した
(略)
またダンスの動画についても、初心者に過ぎない田中さんのダンスが動画で評判になるほどのものではあり得ないこと等の理由を詳細に説明して、日本テレビの補足説明中の提案を認めなかった。
日テレ版では省略されていた「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」の具体的な例をきちんと書いてくれてますね。
「めっちゃ打ち合わせして議論してより面白くなるよう頑張ったんすよ」アピールしてた日テレさん、これも全て改変の意図がきちんと伝わらなかったの一言で済ますの?
社員 A は、上記の 10 月 2 日の日本テレビ社員 Y 氏あてメールで、本件脚本家に関して次のように問いかけている。
「確認なのですが、芦原さんが描き下ろした 8~10 話は基本的に変更無しで使用してほしい、という話は●●さん(本件脚本家。原文は実名)に伝わっていますか?●●(社員 B。原文は実名)から●●さん(日本テレビ社員 X 氏。原文は実名)にもお電話差し上げたのですが、そのお話しは●●さん(日本テレビ社員 Y 氏。原文は実名)に伝わっていますでしょうか?」
以後のメールで日本テレビ社員 Y 氏がこの点について回答した形跡はない。また本件脚本家によると、同氏は一切聞かされていないとのことである(本委員会質問に対する回答)
都合の悪いメールは読まなかったことにして無視、切羽詰まるとよくあるよね~(あるなよ)
10 月 5 日 16 時 45 分、芦原氏は社員 A に第 3 話脚本のシーン 50 で演じられるダンスが「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」ことになっているが、これを「普通のドラムソロ」に変更するように日本テレビ社員 Y 氏に急ぎ伝えるよう要請した。
芦原氏が問題としていたのは、同シーンでベリーダンスを田中さんがステージで踊る際、演出では「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」こととされていた点であり、芦原氏は、社員 A に対して、ハリージ衣装でドラムソロを踊ることは、ベリーダンスの歴史的、文化的背景としてあり得ないので日本テレビ社員 Y 氏に確認してほしいと求めたのである。芦原氏の求めを受けた社員 A が同日 19 時 50 分ショートメールで、日本テレビ社員 Y 氏に対し、芦原氏からの依頼として、「ハリージ+ドラムソロ」はダンスの監修者が OK しているとは思えないので確認してほしいとの依頼があったことを伝えた。
これに対して日本テレビ社員 Y 氏は社員 A に対して直ちに、ダンス監修者には「OK 頂いている」という認識であるが、改めて確認すると返し、同日 23 時 35 分にダンス監修者から OK の確認が取れたと連絡してきた。
しかしこの時、実際にダンス監修者が OK と言っていたかという点には疑問が残る。
(略)
ところが、後日、芦原氏は、「ハリージ衣装でドラムソロ」はあり得ないことを認識した。芦原氏は、日本テレビ社員 Y 氏(なお、撮影は 10 月 10日を予定していたが、日本テレビ社員 Y 氏は社員 A からの 10 月 5 日の問い合わせに撮影済みであると虚偽の発言をしていた。このことでも芦原氏は不信感を募らせていた)の対応に不信を募らせ、間違った有りようのダンスが公に放映されることを看過できず、ダンスの監修者の名誉のためにも撮り直しをするか、それができないなら番組 HP や DVD への釈明文掲載等を日本テレビに要求するように社員 A に依頼した。
3話リテイクの経緯詳細。
日テレ版では、
2023 年 10 月上旬、ドラマ撮影時に撮影シーンを巡って本件原作者が A 氏に対して不信感を抱く事案があった。A 氏は、C 氏より送付された本件原作者の意向に従って当該撮影内容としたつもりであったが、本件原作者はそのような趣旨では依頼していない認識であったため、C 氏に確認を依頼した。
C 氏を通じた本件原作者の撮影シーンに関する問い合わせに対し、A 氏は既に当該シーンは撮影済みである旨回答を行ったが、実際の撮影は 5 日後に予定されており、そのまま予定通り撮影が行われた。
その後、これらの経緯を本件原作者が知ることになった。A 氏によると、まだ撮影していない旨を回答すると本件原作者から撮影変更を求められるのは確実であると思ったが、A 氏は当該撮影シーンは客観的にも問題ないものだと思っていたこと、及び当該シーンの撮影のために 2 か月にわたってキャスト・スタッフが入念に準備を重ねていたため、撮影変更はキャストを含め撮影現場に多大な迷惑をかけるので避けたいと思って咄嗟に事実と異なる回答をしてしまった。このことは反省しているということであった。
と、「撮影前を撮影済みと嘘ついちゃいました、てへぺろ☆」なことしか書かれてないけど、その前に「ダンス監修者の了承が本当にあったのか?」という日テレ担当者の信頼度をさらに下げる一幕があったんじゃねーか!!!!
まさか「今から変更したらみんなに迷惑かけちゃう…」という我が身可愛さで嘘付く人でも「ダンス監修者の了承はきちんと取っていたに違いない」と信じてるの?
そしてどういうつもりで削ったの?(一応、読み落としたかと思って日テレ版を「ダンス監修」で検索してみたが見当たらない)
この間、社員 J が 7 月 27 日に日本テレビに送信した契約書案に対して同社から 9 月 26 日に修正案が戻された。
その中では、改変についての原作者の承諾に関し、小学館提示の原案では小学館と原作者双方の同意が必要としたものを、日本テレビは、日本テレビとして合意を得るべき相手を小学館に限定する修正依頼があった。
原作者の承諾は不可欠であるため、小学館を介して原作者の承諾を得ることに修正し、社員 J は部内の承諾を得たうえ、10 月 23 日に日本テレビに送った。
うーんこの。日テレが原作者をどう思ってるか本音ダダ漏れなの草でしょ。
社員 A のメールは貴重な記録であるが、社員 B は大抵、日本テレビ社員 X 氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。
本委員会において認定根拠としえたのは、社員 A への LINE メッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。
しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
今日はエスカットショップで散髪をして、けんぷくに相談に行ったが、言動がどんどん、ざちゃんになるので、お前はざちゃんだろうというような話になった。5時から大雨になったが
けんぷく前を移動している人を見る限り、変な人がいるような感じはないように思う。
部屋に帰って、濱田浩輔の、パジャマな彼女とかを検討していたら、2巻にかなり残酷な表現がみられるように思う。
ざちゃんに何を言ったかと言うと、とにかく、1年前から、人工知能の光線が寝ている間に入ってくるから、 それを遮断する、 鋼鉄か何かを窓に貼るしかないだろうという趣旨の話。
昔はアベノマスクを使っていたが、 5月10日に、小茂根4丁目で買ったダイヤモンドマスクがそれよりもよくて最近はよく使用している。
所沢と書いたトラックを最近よく見かけるのと、そこに、なんか、 いま東京で流行りの、クソ動画で動いているのではないかと思われる、アンドレヴェイユみたいな顔のトラック運転手とか
お父さん、お母さんが楽器を弾けるなら、以下の文は、釈迦に説法、孔子に論語、ラフマニノフにソナチネ、パガニーニにクロイツェル。(後ろの2つは聞けるものなら聞いてみたい。)
ガチで音大目指すとかそういうのじゃなく。子供に楽器を習わせている一人の親として。自分は趣味で楽器が弾けるだけ。業界の人でもプロでもない。
子供がピアノとか弾けたらいいなとか、バイオリンっひけたらかっこいいなとか。そんな感じで子供(4歳くらいから小学生低学年まで)に楽器を習わせたいなと思っている親御さんへ。
習わせる覚悟は犬を飼うのと同じと思ってね。親が思う、「趣味程度で楽器が弾けるといいな」になるには、最低10年、だいたい15年くらいは習わないと、そうならないと思う。
犬と違って、途中で辞めることはできるけど。
子供が「ピアノやだー」っていってても、レッスンには毎週連れて行って、うちで弾き始めたら「うまくなったね」って言って、だらだら続けていれば、いずれ楽しく弾けるようにはなると思う。
自分の子供にはピアノを習わせてる。5年生(女)と2年生(男)だけど、一緒に習っているお友達がだんだん辞めるようになってきた。
特に小学校低学年でかなりの割合の子が辞めちゃう。3~5年くらい習ってたことになるんだけど、それだとたぶん、この先は趣味でもピアノは弾けないと思う。楽譜も読めないと思う。
すごく勿体ない。その時間、別の習い事をしていればとさえ思う。辞める理由は、練習しなくなったとか、お金がかかるからとか。
発表会でもうちの子より上手に弾いてたのに、と思うと、本当に勿体ない。
楽しく自分のペースで弾けるようになるには、中学終わるくらいや高校生までかかると思う。そこまで続けば、しばらく休んでも再開できるし(手は動かなくなってるが)、楽譜もそこそこ読める。
いわゆる才能があって、小学生の間に、上手に弾けて楽譜も読める子は、たぶん辞めたくないっていうし、先生も引き留めるから、大丈夫。この話の対象ではない。
子供に楽器を練習させるには親の協力も必要だ。鈍感力(できなくてあたりまえ。家ではほぼ騒音)と、共感力(できたときに褒めるだけ)、忍耐力(練習していないままでもレッスンには連れて行く。)が必要だ。
それに加えて、やっぱりお金。毎月最低1万円くらい×12ヶ月×12年。だいたい150万円くらい。楽器代や楽譜などの教材費は除いてそれくらいはかかる。
よく、ピアノは中古でも高いとか、バイオリンは買い換えが・・・、とかいうけど、長期にかかる月謝も高い。
塾や習い事が増えてきて、お金もかかるし取捨選択を迫られたときに、どうしても楽器は辞める方向になりがちだ。お金を出しているのが、楽器を弾かないお父さんだった場合は特に。
でもちょっとまってやって。ここで辞めたら無になる。ここは、投資で言う「コンコルド効果」をいい意味で考えよう。「ここまで払った投資が無駄になる。きっと上向くはずだ。」
自分は4歳から高2までバイオリンを習ってた。親は楽器は弾けない。
中学生、高校生の時はほとんど練習せずに週Ⅰレッスンだけ行ってた。だから、同じ先生に習ってた同じくらいの年の子より数段下手。ソロで人に聞かせるレベルではない。
でもね、楽譜みながら、一応音は拾えるし(拾えたからといって弾けるとは限らないが)、楽器は楽しい。
妻は中学か高校までピアノを習ってた。大学の軽音楽部で知り合って結婚した。そのとき僕はバイオリンではなくウッドベース弾いてたけど。
子供に楽器を習わせてるのは、ただ1つ、大人になって楽しみが増えるから。一人でも楽しいし、数人集まっても楽しい。
スポーツと違って、対戦相手もいらない上に、仲間がいればもっと楽しい。ケガもしないし、遭難もしない。超平和。
同棲してる恋人のことを「同居人」とか言ってぼかしたりするけど、その言葉の使い方をする意図がわからなすぎて、気になり始めたら止まらなくなった。
で、ぐるぐる考えてそこそこすっきりしたので残しておく。
最終的には「なぜ同居人を使うのか」ではなく「なぜ引っかかっているのか」という自分の感情掘り下げですっきりしちゃったので、結局「同居人」という言葉を使うこと自体はどうでもよかったのかもしれない。
モヤモヤしない例でいうと、会社で「同居人が怪我をしたので病院に連れていきます(だから遅刻します)」みたいな文脈だったら、遅刻する理由は説明しないといけないけどプライベートに踏み込んだ話はしたくない、TPO的にするべきじゃないと思っての「同居人」チョイスはわかる。その同居人は友達かもしれないし恋人かもしれないし事実婚関係かもしれない。でもこの文脈でわざわざ関係性を明かす必要はないし(どちらかといえば同居しているという事実のほうが重要)、聞いてる方もそこまで説明してとは思わない。
逆にモヤモヤする例は普通にプライベートの雑談とかで自ら「同居人が〜」って言われるor書かれるとき。「なんでその言葉のチョイスにしたの?」ってなる。
しかも大抵そういうときって「同居人」である必要がない。「友達」「恋人」「知り合い」でも通じる。なんなら「友人」「恋人」「友達の友達」とかはっきりしてくれたほうがスッと頭に入ったりする。そこでわざわざ「同居している」という状況説明を付け加える意味とは。
結論として、私は「同居人」という言葉を変な意味を付け加えてしまっていたのだった。
私の中で「同居人」は「相手との関係性を表す言葉カテゴリ」じゃなくて「状況を表す言葉カテゴリ」であると変に捉えていた。さらに「同棲している恋人のことをぼかしたいときに使われる通称用語として新たな意味を持った一般名詞化しつつある謎用語」みたいな感じになっていた。って考えに至ったらわりとスッキリしたのでモヤモヤが供養された。
前者は、「同居人」は「「誰か」と同居している」というのを名詞化したものであり、概念であり個人を指してないだろ!という感覚だった。「人」って付いてるのにね。
後者は一般名詞を一般名詞でぼかす不思議さを感じていた。性行為のことを「仲良し」ってぼかす謎文化(?)あるけど、あれに近い感覚。
辞書によると「一緒に住んでいる家族以外の人」が同居人ってことらしいので、文字通りで「相手との関係性を表す言葉カテゴリ」が本来正しい。友達とか恋人と同列で語れる言葉。ラベルみたいなもの。そりゃそう。カテゴリが一緒だけど、レイヤーは違う感じかな。
もちろん辞書的な意味はわかってはいたけど、私の実体験として「同居人」が実態として同棲している恋人であることがほとんどであったから、バイアス(?)のようなものがかかっていて、色々ごちゃごちゃになっていたのだと思う。
だから「同居人」という言葉で説明されるとなんとなく全体がモヤがかっている文章に思えて、本質が掴めないような気がしてた。本当に「同居人」としか言いようがない関係の人もいるだろうけど。
「ぼかす」意味で利用している人も、「一般名詞を一般名詞でぼかしている」のではなくて「レイヤーをあげてぼかしている」なんだとやっと気づけた。そしてレイヤーをあげてぼかしている理由は私にとってどうでもよかった。千差万別だろうし。
なんだか文章にしてみると当たり前過ぎてなんでそんなモヤモヤしてたんだという気はするけど、これで明日から「同居人」と聞いてもモヤモヤしなくなるのは嬉しい。
これ、 Not foundにタイトル変えて反映されてから削除したんじゃないかね
https://web.archive.org/web/20240601095222/anond.hatelabo.jp/20240601013546
原作者は最終的なドラマの出来については満足していたということについてはどちらも認めているんだよな。
で、小学館の方で新たに発覚したのが「脚本家の例の投稿によって原作者は原稿が書けない状態になっていた」ということ。
これ読むと脚本家のSNS投稿が原作者の死のトリガーになったってハッキリ言ってるように聞こえる。
それがなければ制作中のトラブルはあっても「慣れない新人Pに担当されて大変な目にあったけど脚本家を追放してドラマ化大成功した件」で終わるはずだった。
日テレが再三主張している伝達のミスも、そもそも脚本家が「原作者の指摘を直接見たくない」と言い出したのが発端に見えるし、
SNS投稿の原因となった「9,10話に対して脚本家が協力などの形でクレジットを載せろという要求が通らなかった」ってのも、
それらが最終的に原作者の脚本で進んでいたことを考えると無理のあるゴネに見える。
・脚本家が見たくないと思ったほどの原作者の指摘とは具体的にどういった文面だったのか?
・9,10話には本当に脚本家のアイデアが一切(例え偶然にでも)使われていなかったのか?
・アイデアが一切使われていなかったとしても、脚本の作成を途中まで行っていた以上クレジットするというのは慣習として標準的なのか?
1つ目については両社の報告書にはやや怪しい部分がある。
原作者とのやり取りの文面は膨大な量になっているはずなのに、具体的に提示している文面は
「短大の設定を変更したこと」や「4話時点で入れ替えなどによる作品崩壊を指摘する文」など同じ箇所を引用しているのだ。
穿ち過ぎかもしれないが、他の箇所では表に出しづらい語調のものがあり避けた結果と考えることもできなくはない。
もちろん問題を考えるうえで様々な理由で被ったとは思われるが、
何にせよ大部分の文章は表に出ておらず、脚本家の要望が妥当と思える文面があった可能性は捨てきれない。
2つ目については原作者の脚本が丸ごと使われている以上ありえないように思えるが、
日テレの報告書では脚本家が「9,10 話で本件脚本家のアイデアを一切使わないでほしい」と要望した文面があり、
このことについて報告書ではスルーされている。(小学館側は知りようがないので当然不記載)
また、小学館の報告書によると、原作者はドラマの演出者からの意見を反映させて脚本を完成させたとある。
この演出者の意見がじつは脚本家の案を反映させたものであった、という可能性は無いとは言えない。
また、偶然原作者の脚本の内容が元の脚本と被っている部分があったとしても、
すでに現場から外れていた脚本家には流用されたとしか見えず、上記の要望へ繋がったとも考えられなくはない。
そして3つ目。
日テレの報告書で「状況を鑑みて脚本家の権利として商習慣上「脚本協力」のクレジットが表記されるのが当然」と脚本家が述べているが、
おそらくこれは最終的に使われなかったとはいえ「一旦は脚本を完成させるところまで作業をした」のにも関わらず、クレジットされないのはおかしいという話であると思われる。
例えばシン・ゴジラでは途中までひるね姫の神山健治が脚本を書いていたが、最終的に大まかな要素を残しつつ別物となったものを庵野が書き上げ、神山は企画協力というクレジットになっている。
これはオリジナル映画であり上山の要素もかなり残っているので当然と思われるが、
もし当人の成果物が使われていなくても途中まで参加していたメンバーはクレジットに乗せるという習慣があるのであれば、この要望は妥当であり、SNSで不本意を表明するのも妥当と言えることになる。
日テレも小学館も保身のためにより具体的な情報を出し渋っている傾向があり、これだけで特定個人の責任を論じるのは危険だと思われる。
「じゃあどうするか」みたいな話はないまま終わっただろあれ
おまえは突然電話して話をしてくれるだけのことを普段友人にしているか?
もしかしたら、「今電話してくるんじゃネーよ💢」って状態なのを
「はーい、じゃーねー」で済ませてくれてる聖人君主かも知れないぞ?
やめてくれ。友人よ。
話を聞いて欲しいだけなのだ
そしてそれを言った途端、
あそうなのじゃあね。
みたいな感じで電話切るのもやめてくれ
こちとら誰にも話せないことを話しているのだ
少しでも心を軽くしたかったのだ
傲慢か?そうか。
別に間違いをただして欲しいわけではなく
全ての背景話す前に決めつけるのもやめてくれ
結局、あなたが甘いんじゃないですか?
みたいな形もやめてくれ!
もう正直に言うよ
そうだねって言われただけで楽になれるんだ!
電話で話していた友人は
はーいじゃあねー。おつー。
と去っていきました。
いきなり泣くしめんどくさかったんだろうな。
でも俺は頑張ってんだよ。ほんとうに。
甘いなんて一言で終わらせないでくれ
そんなこと言われたら逃げ場ないじゃんよ。
逃げ場作ろうとしてる時点で甘いのか
もうわけわからなくなってきた。
言いたいことが両者違ったり言った言わないのところもあるが大筋としてみたときの話をする。
何度も止めるチャンスはあったと思う。初手から間違っているのはそうなのだが、ミスは起こり得るものとして、最悪を引き起こさない最終チャンスはどこか考えると、脚本家がSNSに書くと言ったときだったのではないか。
どちらも見ると、この状況で脚本家がなにもSNSで言わないなんてことはないだろうと思う。脚本家はこの時点でメンタルに支障をきたしているようだが、健康でも、この脚本家でなくても、声を上げる人は多いだろう。
確かにSNSの投稿内容は考察の余地があるかもしれないが、ここでプロデューサーが脚本家のところに土下座謝罪しにいって「なにも伝えていませんでした」と言っていれば、SNSの内容は日テレ批判になっていただろう。そして日テレ側はこの問題を【もみ潰せたかもしれない】。
脚本家も原作者も何故そうなったのか分からない状態で、相手から批判を食らう状況になってしまっている。
これでなにか実際に悪いことをしていたら、批判も受け入れる余地があるのかもしれない。
脚本家からしたら、途中からはとくに具体的な指摘もせず悪口ばっか言ってきてついには降ろそうとしてきた原作者。
最悪な図式ができあがってしまっている。
日テレが正直にごめんなさいすべきだった。経験が浅く仕事ができない、ドラマ仕事に向いてない、またはノイローゼだったのはあるのかもしれないが、謝れない社会人はどうしようもない。
これ以降の対処にも改善点はある。あるのだが、それを全部改善したところでどうしても「もう遅い」感が否めない。
バッドエンドルートはここで確定をしていて、最悪に進むしかなくなっているように思う。
もみ潰せたかも、と書いたが今回表面化したことで対策を取れるようにはなった。死を無駄にするなという言葉は嫌いだが、対策をするしかないのだ。日テレはドラマを作りたいなら逃げるなよ。
オイオイ待てよお前だって普段はソシャゲなんて出来の悪い賽銭箱だ。買い切りの方がずっと面白いと言ってきただろ。、と。
要約すれば、買い切りゲームでは失敗してもプレイ時間以外に失うものがないので、1プレイにかける熱を薄めるというデメリットになる。、ということらしい。
つまりアイツが言いたかったのは、ソシャゲであることがマイナスになるゲームとプラスになるゲームを区別できずなんでもかんでも買い切りじゃないから駄目だと言ってる奴らは浅いということだそうだ。
なるほど。
アイツは言葉ではそう言っていたが俺には分かる。
アイツが本当に言いたかったのは、プレイするたびにスタミナを失うというゲーム性が、プレイするたびにコインを失っていくアケマスのゲーム性へと原点回帰しているのに、これを評価できない奴にこのゲームについて語る資格はない。、ということのはずだ。
俺達はあの頃、アケマスをやっていた。
金がない中で、飯代を必死に削りながらアケマスをやっていた。
若かった。
家庭用が出た。
XBOX本体と合わせた値段で考えてもプレイにかかる総コストはべらぼうに下がったはずだ。
だが、どこかで情熱が失われていった。
身銭を切ることがなくなったはずなのに結果に対しての悪態が増えていた。
時間以外は何も失っていない中で、時間だけを失っていくとうい感覚が結果的に、より多くのものを失ったかのような錯覚さえもたらした。
1プレイにかける覚悟、それを生み出していたのはクレジット投入音だったのか。
俺達のアイマスにかける熱はいつしか冷え切り、ガラケーで、スマホで、課金してスタドリを飲みながら走り続ける連中を嘲笑うようになっていた。
あんな集金装置にお金を入れちゃって、好きなアイドルにいつか声がつくと信じてるんだからおめでたいもんだね。、と。
そんな俺達もアイマスの新作が出るたびに少し齧っては、ゲーム性に違和感を覚えてやめてばかりいた。
だが、最近になってそうじゃなくなってきたんだ。
失敗と隣り合わせの育成が、育成の度に失われるスタミナが、単なるポイント稼ぎのための作業ではなく、一回一回に新しい発見のある周回が。
スタミナ制だから、疑似クレジット方式だから、そこに意味があるんだよ。
音ゲーじゃ駄目なんだ。
育成ゲーじゃなきゃアイマスじゃない。
周回じゃなきゃアイマスじゃない。
そして、買い切りじゃ駄目なんだ。
時間以外の何かを失いながら走れないなら、それはアイマスじゃない。
俺達にとっての、俺にとってのアイマスじゃないんだよ。
これが分かってないやつら、本当に浅いよな。
いっこも書いてないこと突然語り初めて怖い
まじで頭狂ってる人だったか
仮に心のペニス振り回し男がいたとしても、女相手にしか振り回さないだろうし、ペニスを振り回してない男なんていないって断言できる立場じゃないの分かってる?w
動物のマークのイタ車乗ってるけど、ディーラーで24カ月点検と機器検査と代行だけで22万だぞ。エンジンオイル7万、ブレーキフルード2万、ミッションオイル13万、クーラント・バッテリーで各8万
カントの定言命法ってなんかそれっぽい用語を使ってるから何らかの原理みたいに思えるけど、要するに仮言命法とは違って論理性という錦の御旗のないただの主義・主張でしかないんじゃないか?って思った。
他人に最低限の敬意を持ちましょう。って言われてまあそうかもねっていう素朴な共感はあるけど、それは感覚の問題であってそこに論理はない。もっと言えばその感覚すらも社会的に形成されたもの、というかキリスト教の倫理規範そのものなんじゃないか?って思う。
じゃあカントによる道徳の再定義・正当化も、論理性・合理性という現代(?)風な科学のツールで飾り立てつつ、結局は聖書の価値規範をリブートしただけなんじゃないか?って思った。
もっと遡れば、じゃあその他敬を良しとする社会はどう構築されたののか?無から湧いてきたのか?って問題が出てきそうだけど。
神様がそうしたからです、という答えなら簡単に済む。人にそういう機能がプリインストールされてるからです、だとそれも道徳の正当化に使えそうだけど、事実を規範にすり替えないといけない。
道徳の根拠として定言命法を持ち出すのは、少なくとも論理で語れる面については色々と新しい発見をしているすごいカント先生の言う事だから説得力があろうっていう権威主義的な要素もあるんだろうか。
実際に人間の尊厳という概念が社会に影響を与えているというのは事実にしても、それは別に論理的必然性との関係はないよね?って思う。
そんなに徹底して厳格に理詰めで考えてたら、そもそも規範なんてありませんというニヒリズムに辿り着かざるを得ない。
じゃあある程度は感覚的なものに依拠する規範を公理として置いて、そこから道徳の話を始めようって事なのかもしれない。それがキリスト教か人権思想かは知らんけど。
そういう話ならまあ分からんでもないけど、それだとかなり重大な前提条件あっての議論な訳だし、それをさも論理的に話をしてるんですけど?みたいなスタンスで行くのは欺瞞じゃねえか?