はてなキーワード: ものとは
人を好きになるのは分かるけど、子供が欲しい気持ちは分からないタイプだった。
けど、南米人とデート・セックスしたらその気持ちが分かったような気がする。
デート中ずっとイチャイチャするの楽しいしエロいし、キスからして淡白な日本人とは違うなと。
めちゃくちゃ生々しいけど、抱きしめられてる時とかキスしてる時とかに、体が遺伝子を求める感じがあった。こいつの血を絶やしちゃいけないんしゃない?と思った。理屈じゃなく込み上げてくるものなんだね。
恋愛でも次行け次はあるよ
相手からしたら好きじゃない相手からずっと好きでいられるのは重荷だし、断ってるのにアプローチされ続けようものなら害だとすら感じられる
むしろお互い好き同士って、奇跡みたいなものだから当たり前に叶うものじゃないし、行動はスグしたほうがいい。
スグしたほうがいいのは行動であって告白じゃないよ。
まずは2人で遊びに行ってお互いをよく知る、好感度上げて告白する。
一定の好感度は上げられても、付き合えるほどの好感度に達せるのは運だから、それはかけ。
無理なもんは無理だし、告白して失恋してはやく次に行った方が良い。
付き合えたらラッキー。
同棲してる恋人のことを「同居人」とか言ってぼかしたりするけど、その言葉の使い方をする意図がわからなすぎて、気になり始めたら止まらなくなった。
で、ぐるぐる考えてそこそこすっきりしたので残しておく。
最終的には「なぜ同居人を使うのか」ではなく「なぜ引っかかっているのか」という自分の感情掘り下げですっきりしちゃったので、結局「同居人」という言葉を使うこと自体はどうでもよかったのかもしれない。
モヤモヤしない例でいうと、会社で「同居人が怪我をしたので病院に連れていきます(だから遅刻します)」みたいな文脈だったら、遅刻する理由は説明しないといけないけどプライベートに踏み込んだ話はしたくない、TPO的にするべきじゃないと思っての「同居人」チョイスはわかる。その同居人は友達かもしれないし恋人かもしれないし事実婚関係かもしれない。でもこの文脈でわざわざ関係性を明かす必要はないし(どちらかといえば同居しているという事実のほうが重要)、聞いてる方もそこまで説明してとは思わない。
逆にモヤモヤする例は普通にプライベートの雑談とかで自ら「同居人が〜」って言われるor書かれるとき。「なんでその言葉のチョイスにしたの?」ってなる。
しかも大抵そういうときって「同居人」である必要がない。「友達」「恋人」「知り合い」でも通じる。なんなら「友人」「恋人」「友達の友達」とかはっきりしてくれたほうがスッと頭に入ったりする。そこでわざわざ「同居している」という状況説明を付け加える意味とは。
結論として、私は「同居人」という言葉を変な意味を付け加えてしまっていたのだった。
私の中で「同居人」は「相手との関係性を表す言葉カテゴリ」じゃなくて「状況を表す言葉カテゴリ」であると変に捉えていた。さらに「同棲している恋人のことをぼかしたいときに使われる通称用語として新たな意味を持った一般名詞化しつつある謎用語」みたいな感じになっていた。って考えに至ったらわりとスッキリしたのでモヤモヤが供養された。
前者は、「同居人」は「「誰か」と同居している」というのを名詞化したものであり、概念であり個人を指してないだろ!という感覚だった。「人」って付いてるのにね。
後者は一般名詞を一般名詞でぼかす不思議さを感じていた。性行為のことを「仲良し」ってぼかす謎文化(?)あるけど、あれに近い感覚。
辞書によると「一緒に住んでいる家族以外の人」が同居人ってことらしいので、文字通りで「相手との関係性を表す言葉カテゴリ」が本来正しい。友達とか恋人と同列で語れる言葉。ラベルみたいなもの。そりゃそう。カテゴリが一緒だけど、レイヤーは違う感じかな。
もちろん辞書的な意味はわかってはいたけど、私の実体験として「同居人」が実態として同棲している恋人であることがほとんどであったから、バイアス(?)のようなものがかかっていて、色々ごちゃごちゃになっていたのだと思う。
だから「同居人」という言葉で説明されるとなんとなく全体がモヤがかっている文章に思えて、本質が掴めないような気がしてた。本当に「同居人」としか言いようがない関係の人もいるだろうけど。
「ぼかす」意味で利用している人も、「一般名詞を一般名詞でぼかしている」のではなくて「レイヤーをあげてぼかしている」なんだとやっと気づけた。そしてレイヤーをあげてぼかしている理由は私にとってどうでもよかった。千差万別だろうし。
なんだか文章にしてみると当たり前過ぎてなんでそんなモヤモヤしてたんだという気はするけど、これで明日から「同居人」と聞いてもモヤモヤしなくなるのは嬉しい。
原作者は最終的なドラマの出来については満足していたということについてはどちらも認めているんだよな。
で、小学館の方で新たに発覚したのが「脚本家の例の投稿によって原作者は原稿が書けない状態になっていた」ということ。
これ読むと脚本家のSNS投稿が原作者の死のトリガーになったってハッキリ言ってるように聞こえる。
それがなければ制作中のトラブルはあっても「慣れない新人Pに担当されて大変な目にあったけど脚本家を追放してドラマ化大成功した件」で終わるはずだった。
日テレが再三主張している伝達のミスも、そもそも脚本家が「原作者の指摘を直接見たくない」と言い出したのが発端に見えるし、
SNS投稿の原因となった「9,10話に対して脚本家が協力などの形でクレジットを載せろという要求が通らなかった」ってのも、
それらが最終的に原作者の脚本で進んでいたことを考えると無理のあるゴネに見える。
・脚本家が見たくないと思ったほどの原作者の指摘とは具体的にどういった文面だったのか?
・9,10話には本当に脚本家のアイデアが一切(例え偶然にでも)使われていなかったのか?
・アイデアが一切使われていなかったとしても、脚本の作成を途中まで行っていた以上クレジットするというのは慣習として標準的なのか?
1つ目については両社の報告書にはやや怪しい部分がある。
原作者とのやり取りの文面は膨大な量になっているはずなのに、具体的に提示している文面は
「短大の設定を変更したこと」や「4話時点で入れ替えなどによる作品崩壊を指摘する文」など同じ箇所を引用しているのだ。
穿ち過ぎかもしれないが、他の箇所では表に出しづらい語調のものがあり避けた結果と考えることもできなくはない。
もちろん問題を考えるうえで様々な理由で被ったとは思われるが、
何にせよ大部分の文章は表に出ておらず、脚本家の要望が妥当と思える文面があった可能性は捨てきれない。
2つ目については原作者の脚本が丸ごと使われている以上ありえないように思えるが、
日テレの報告書では脚本家が「9,10 話で本件脚本家のアイデアを一切使わないでほしい」と要望した文面があり、
このことについて報告書ではスルーされている。(小学館側は知りようがないので当然不記載)
また、小学館の報告書によると、原作者はドラマの演出者からの意見を反映させて脚本を完成させたとある。
この演出者の意見がじつは脚本家の案を反映させたものであった、という可能性は無いとは言えない。
また、偶然原作者の脚本の内容が元の脚本と被っている部分があったとしても、
すでに現場から外れていた脚本家には流用されたとしか見えず、上記の要望へ繋がったとも考えられなくはない。
そして3つ目。
日テレの報告書で「状況を鑑みて脚本家の権利として商習慣上「脚本協力」のクレジットが表記されるのが当然」と脚本家が述べているが、
おそらくこれは最終的に使われなかったとはいえ「一旦は脚本を完成させるところまで作業をした」のにも関わらず、クレジットされないのはおかしいという話であると思われる。
例えばシン・ゴジラでは途中までひるね姫の神山健治が脚本を書いていたが、最終的に大まかな要素を残しつつ別物となったものを庵野が書き上げ、神山は企画協力というクレジットになっている。
これはオリジナル映画であり上山の要素もかなり残っているので当然と思われるが、
もし当人の成果物が使われていなくても途中まで参加していたメンバーはクレジットに乗せるという習慣があるのであれば、この要望は妥当であり、SNSで不本意を表明するのも妥当と言えることになる。
日テレも小学館も保身のためにより具体的な情報を出し渋っている傾向があり、これだけで特定個人の責任を論じるのは危険だと思われる。
言いたいことが両者違ったり言った言わないのところもあるが大筋としてみたときの話をする。
何度も止めるチャンスはあったと思う。初手から間違っているのはそうなのだが、ミスは起こり得るものとして、最悪を引き起こさない最終チャンスはどこか考えると、脚本家がSNSに書くと言ったときだったのではないか。
どちらも見ると、この状況で脚本家がなにもSNSで言わないなんてことはないだろうと思う。脚本家はこの時点でメンタルに支障をきたしているようだが、健康でも、この脚本家でなくても、声を上げる人は多いだろう。
確かにSNSの投稿内容は考察の余地があるかもしれないが、ここでプロデューサーが脚本家のところに土下座謝罪しにいって「なにも伝えていませんでした」と言っていれば、SNSの内容は日テレ批判になっていただろう。そして日テレ側はこの問題を【もみ潰せたかもしれない】。
脚本家も原作者も何故そうなったのか分からない状態で、相手から批判を食らう状況になってしまっている。
これでなにか実際に悪いことをしていたら、批判も受け入れる余地があるのかもしれない。
脚本家からしたら、途中からはとくに具体的な指摘もせず悪口ばっか言ってきてついには降ろそうとしてきた原作者。
最悪な図式ができあがってしまっている。
日テレが正直にごめんなさいすべきだった。経験が浅く仕事ができない、ドラマ仕事に向いてない、またはノイローゼだったのはあるのかもしれないが、謝れない社会人はどうしようもない。
これ以降の対処にも改善点はある。あるのだが、それを全部改善したところでどうしても「もう遅い」感が否めない。
バッドエンドルートはここで確定をしていて、最悪に進むしかなくなっているように思う。
もみ潰せたかも、と書いたが今回表面化したことで対策を取れるようにはなった。死を無駄にするなという言葉は嫌いだが、対策をするしかないのだ。日テレはドラマを作りたいなら逃げるなよ。
「一方だけがお金を払ってセックスするのではなく、ホテル代を割り勘してセックスする関係になりたい」
避妊をちゃんとやる分には大人同士が対等の関係でお互いの性機能だけを求めるというのはなにもおかしいことではないはずなのに。
恋人探しに失敗する人の大部分が、セフレ・配偶者候補・友人+αのどれを求めているのかを見誤っている。
セックスをするだけの関係を求めているのに年収を気にされても困るし、子供が欲しいのに毎度毎度避妊されていても予定が狂うというものだ。
自分が何を求めているのかを知らない、ましてや自分が何を求めているのかが分かったうえで相手に隠す、そういった所か不幸が生まれる。
セーフセックスがしたいだけならセーフセックスがしたいだけだとハッキリ言うべきだし、単に異性の友だちが欲しいだけでセックスは出来なくてもいいならそういう意識を貫くべきだ。
相手をどのように扱いたいのか、相手にどのように扱われたいのか、それをハッキリさせもせずに出会いサイトに雑に登録して雑に街コンに行くから上手くいかんのだ。
目的をはっきりさせろ。
TOEIC900点代あるんだけど、たまに遭遇する低偏差値大学のバカにこういうこと聞かれてめちゃくちゃイラつくのでチラ裏で愚痴吐き出す。
文系で偏差値高い大学卒だったら英語は得意で当たり前だし、受験勉強やってた要領で試験対策すればTOEICで高得点取るのもそんなに難しくない。
ぶっちゃけ自分たちみたいな上位大学の文系就活生にとってTOEICで高得点取るのって足切りみたいなもので、そこからさらに意識高いサークルの活動とか玉手箱対策とか業界研究とか企業研究とかフェルミ推定の練習とか頑張ってそれなりに納得できる会社に就職した。
なのにこういうこと言うやつは、まるで英語が話せるからでかい会社に就職できたみたいに勘違いしてたり、自分の専門性が英語を使えることにあるみたいな扱いをしてくるので、これまでの英語以外の(なんなら英語なんかよりよっぽど苦労した)努力を自邸されている気分になってむかつく。
コドオジが売れるのなら喜んで売るだろうに、そういう売りたいものほど売れないんだよなぁ
また今日も生きてるだけで嫌われたよ 会社で叱られゴミ扱い 家でも厄介者のゴミ扱い はぁーーーーーーーーーーーーーー発達障害はゴミってか?認知が歪んでるってか?そうさせてるのは俺だけじゃなくてお前らのせいもあるんだぞ そんなつもりで言ってない? はぁああああああs? ふざけるな お前ら全員俺をバカにしてるだろ? 二次障害?上等じゃねーか。 オレが悪いんだろ? おまえら全員、
オイオイ待てよお前だって普段はソシャゲなんて出来の悪い賽銭箱だ。買い切りの方がずっと面白いと言ってきただろ。、と。
要約すれば、買い切りゲームでは失敗してもプレイ時間以外に失うものがないので、1プレイにかける熱を薄めるというデメリットになる。、ということらしい。
つまりアイツが言いたかったのは、ソシャゲであることがマイナスになるゲームとプラスになるゲームを区別できずなんでもかんでも買い切りじゃないから駄目だと言ってる奴らは浅いということだそうだ。
なるほど。
アイツは言葉ではそう言っていたが俺には分かる。
アイツが本当に言いたかったのは、プレイするたびにスタミナを失うというゲーム性が、プレイするたびにコインを失っていくアケマスのゲーム性へと原点回帰しているのに、これを評価できない奴にこのゲームについて語る資格はない。、ということのはずだ。
俺達はあの頃、アケマスをやっていた。
金がない中で、飯代を必死に削りながらアケマスをやっていた。
若かった。
家庭用が出た。
XBOX本体と合わせた値段で考えてもプレイにかかる総コストはべらぼうに下がったはずだ。
だが、どこかで情熱が失われていった。
身銭を切ることがなくなったはずなのに結果に対しての悪態が増えていた。
時間以外は何も失っていない中で、時間だけを失っていくとうい感覚が結果的に、より多くのものを失ったかのような錯覚さえもたらした。
1プレイにかける覚悟、それを生み出していたのはクレジット投入音だったのか。
俺達のアイマスにかける熱はいつしか冷え切り、ガラケーで、スマホで、課金してスタドリを飲みながら走り続ける連中を嘲笑うようになっていた。
あんな集金装置にお金を入れちゃって、好きなアイドルにいつか声がつくと信じてるんだからおめでたいもんだね。、と。
そんな俺達もアイマスの新作が出るたびに少し齧っては、ゲーム性に違和感を覚えてやめてばかりいた。
だが、最近になってそうじゃなくなってきたんだ。
失敗と隣り合わせの育成が、育成の度に失われるスタミナが、単なるポイント稼ぎのための作業ではなく、一回一回に新しい発見のある周回が。
スタミナ制だから、疑似クレジット方式だから、そこに意味があるんだよ。
音ゲーじゃ駄目なんだ。
育成ゲーじゃなきゃアイマスじゃない。
周回じゃなきゃアイマスじゃない。
そして、買い切りじゃ駄目なんだ。
時間以外の何かを失いながら走れないなら、それはアイマスじゃない。
俺達にとっての、俺にとってのアイマスじゃないんだよ。
これが分かってないやつら、本当に浅いよな。
前の会社で、ある国家資格の登録したら8万円の祝金がもらえる制度があって、実は入社の数年前に合格はしていた(登録はいつでもできる)ので、入社後すぐに登録して8万円の小遣いをゲットしてことがある。
そうだよ。相手も人間だからね。ただ、セックスは無理やりするものではないから嫌なら拒否すればいい。男もそれに同意して、大人しく夜のお店にGOすればいい。でも、これをできる人間が少ないのも事実。
自分は女で普通に男友達はいるが、彼らともいつ何があってもおかしくないという気持ちで向き合っている。
それは別に脅威でもなんでもないというか、友人として付き合いつつセックスする選択肢もあるし、そういうスイッチは自分も向こうも常に持ち合わせてるものだと思っている。
たとえば犬を飼う時に、本質的には肉食獣であるということを忘れずに飼ってるか、「うちのショコラちゃんは大事な娘、人を噛んだりしないザマス」って思考停止してるかの違いのように思う
カントの定言命法ってなんかそれっぽい用語を使ってるから何らかの原理みたいに思えるけど、要するに仮言命法とは違って論理性という錦の御旗のないただの主義・主張でしかないんじゃないか?って思った。
他人に最低限の敬意を持ちましょう。って言われてまあそうかもねっていう素朴な共感はあるけど、それは感覚の問題であってそこに論理はない。もっと言えばその感覚すらも社会的に形成されたもの、というかキリスト教の倫理規範そのものなんじゃないか?って思う。
じゃあカントによる道徳の再定義・正当化も、論理性・合理性という現代(?)風な科学のツールで飾り立てつつ、結局は聖書の価値規範をリブートしただけなんじゃないか?って思った。
もっと遡れば、じゃあその他敬を良しとする社会はどう構築されたののか?無から湧いてきたのか?って問題が出てきそうだけど。
神様がそうしたからです、という答えなら簡単に済む。人にそういう機能がプリインストールされてるからです、だとそれも道徳の正当化に使えそうだけど、事実を規範にすり替えないといけない。
道徳の根拠として定言命法を持ち出すのは、少なくとも論理で語れる面については色々と新しい発見をしているすごいカント先生の言う事だから説得力があろうっていう権威主義的な要素もあるんだろうか。
実際に人間の尊厳という概念が社会に影響を与えているというのは事実にしても、それは別に論理的必然性との関係はないよね?って思う。
そんなに徹底して厳格に理詰めで考えてたら、そもそも規範なんてありませんというニヒリズムに辿り着かざるを得ない。
じゃあある程度は感覚的なものに依拠する規範を公理として置いて、そこから道徳の話を始めようって事なのかもしれない。それがキリスト教か人権思想かは知らんけど。
そういう話ならまあ分からんでもないけど、それだとかなり重大な前提条件あっての議論な訳だし、それをさも論理的に話をしてるんですけど?みたいなスタンスで行くのは欺瞞じゃねえか?
ガルパンあたりはまだお気楽いいけどシリアス寄りのウマ娘アニメとかレビュースタァライトとかユーフォニアム辺りの登場人物がストイックすぎてピリピリしてるやつなんか可哀想に見えて見てらんなくなる
美少女はあずまんが大王、らき⭐︎すた、けいおん!、ゆゆ式、キルミーベイベーみたいに一生ダラダラした日常を送ってほしいわ。
街の動物愛護センターからお迎えした時は両の手のひらにのるくらいのこねこだったのですが、まるまるしていたおなかもシュッとしてきて、とても素敵なわかねこになりました。センターのスタッフの方からはちょっとひかえめな子なのでと伺っていましたが、びびりちゃんだったのは最初の1週間だけで、いまでは増田が夕刻帰宅して玄関を開けるトトトトとお迎えに駆け寄ってくれますし、そのあと増田の足元をくるくるまとわりつきながら勢いよく倒れ込んで白いおなかを上にするので、増田もすかさずただいまのあいさつと共に全身を撫で回したりしています。増田のねこはいわゆる縞みけでキジトラと茶トラと白の三色毛皮なのですが、背中の模様はキジトラと茶トラがマーブル模様のように混ざり合っていてまるでめのうのように美しいので、増田は今日もきれいだねえかわいいねえと唱えつつ白いおなかとマーブルの背中を交互に撫で回してからばんごはんのパウチを召し上がっていただく準備を始めます。増田のねこもごはんよりもこの帰宅時のご挨拶を大事にされているので、手を抜くわけにはいかないのです。
増田には長く一緒にくらしていた先代ねこがいたのですが、街中で唐突に出会って勢いで共同生活が始まることになった先代とは違って、二代目は乞うて動物愛護センターから来ていただいているわけなので、やはりきちんとおもてなししたいですし、しないとダメだと思うのです。まあこちらも先代とは20年以上も共に暮らしていたものですから、遊びだろうがブラッシングだろうが所望されたら即対応することなど造作もありません。彼女のほうも遊びたいときには遊びたいおもちゃをくわえてやってきて、増田の目を見ながらぽとりと落としたりするくらいではあるので、「まあいっしょに暮らしてやらないでもない」くらいには感じてもらっていると良いなあと増田は思っています。ただ、ねこ一匹ひと一人の生活なので、コロナ禍から社会が通常に戻るにつれてねこに留守番をお願いすることも増えてきてしまいました。先日はとうとう初めて一泊二日の留守番をお願いしてしまったのですがとてもよいこで待っていてくれました。まあ帰宅時のご挨拶はちょっと長めを要求されましたが。
先代もとても素敵なねこだったのにさらに輪をかけてすてきなねこをお迎えすることができるなんて、NNNがちょっと増田をひいきしすぎている点についてはみなさまに対して大変申し訳なく感じているわけですが、こればかりはどうしようもないので、引き続き仲良く暮らしていこうと思います。以上よろしくお願いいたします。
クラスのツートップみたいなのよりも、美術部とかでうちわだけでキャッキャしてるような女子が好き。
画面にやたらと出てくるウザい広告にウンザしないやつは少ない。
ネットを見ていれば、どこに行っても追いかけてくるあのバナー広告、うっとうしい。
第一に、Web広告は「ユーザーに価値を提供するべき」だ。見たことある?価値を提供する広告なんて。
広告ってのは、基本的にユーザーにとっては邪魔者。だからこそ、少しでも役に立つ情報を提供しなきゃならない、本当はね。でも現実は、欲しくもないものを無理やり売りつけるような広告ばかり。誰がそんなの見たいと思うのか。
美しく、さりげなく、邪魔にならないように配置することが大切なはずだ。
現実は、ページをスクロールするたびに目に飛び込んでくるド派手なバナー。特に動くな!追いかけてくるな。
これは、嫌がらせとしか言いようがない。少しはユーザーの気持ちを考えたデザインにしろよ。
広告がないと無料でコンテンツを提供できないんだって話があるのは分かる。広告収入は重要だ。
だが、そのためにユーザー体験を犠牲にしていいわけじゃない。広告がユーザーの邪魔をするんじゃなくて、自然に溶け込むように設計する。それができないなら、広告の在り方そのものを見直す必要がある。
そして、ターゲティングの問題。適切なユーザーに適切な広告を見せるのが理想だが、現実は?
一度でも関連するキーワードを検索したら、その後何度も同じ広告が出てくる。しかも、買った後も追いかけてくる。お前、俺がもう買ったの忘れたのか?何個買えば満足なんだ?こんな無駄な追跡広告、誰も望んでない。
でも過剰な追跡はプライバシー侵害だし、ユーザーを不快にさせるだけだ。もっとユーザーの行動を尊重した、適度なパーソナライズが必要だろう。
結局のところ、Web広告は「ユーザーのために存在するべき」、これに尽きる。ユーザーの体験を損なうことなく、価値を提供し、自然に溶け込むような広告。それが本来の在り方だ。広告主もプラットフォームも、そのことを忘れかけてる。ユーザーの信頼を得るためには、まずユーザーの視点に立つことが大切だってことを。
モテる方法を聞いているのに、モテるよりも人生のパートナーを作るほうがいいよ、そのためには「人間扱い」するのがいいよと言ってくるからである。
モテることすらできない人間が人生のパートナーって美少女が空から降ってくるのを期待するようなものでしょ
そんな自分としては、モテることより友達を作り人間関係を豊かにする方が大事だと思う。モテるテクニックで恋人を作っても意味あるのか?と思う。
filmarksで映画をクリップするのは楽しいけど、いざ観ようとすると億劫になる。
なんかおれの人生の楽しみって期待ばっかりで、実感とか情熱とかそういうものが決定的に欠けてる。
のを理解した上で、新しく趣味を始めて初期衝動に突き動かされて、その後の退屈に耐えて、耐えられなくなって他の趣味を転々としてる。
いつもこれのためなら生きていけるかもって憧れや希望だけで、いつもこれのためになら生きてもいいかなあって納得のレベルまで行けない。
ランニングだけはなんか習慣化してるけど、それも歯磨きや風呂と同じで別に楽しいとかそういう気持ちが湧かない。
結局自己実現なんかどうでもよくて、気持ちが良ければそれでいいのかもしれない。でもやっぱりちょっとそれでは納得しきれない気もしてる。