はてなキーワード: 冒険小説とは
小学生の頃、作文の通信添削をやっていた。すごくすごく楽しかった。添削なんていったって、好きなことを好きなように好きなだけ書いているだけで良かった。書くことが見つからない人のために、題材の例をまとめた本もあったけど、すぐに使わなくなった、書きたいことがありすぎて。
冒険小説を書いた。
自分と仲のいい友達が、自分達の住む町を探検するやつ。ネタを探しに町をさまよったり、図書館に通ったりして、町のことを調べた。商店街のお店の地図を書いた。裏道はもらさずチェックした。いくらでも話がふくらんで、書きたいことが尽きなかった。自分で書きながら、次どうなるんだろうってわくわくしてた。
浪人が竜と戦ったり、浪人なのに召抱えの殿様がいたり、からくりロボットを操縦したりする激動の幕末を描く物語。とにかく自分の好きなもの、好きな映画、好きな物語の要素を詰め込んでいったらそうなった。
どれも話が膨らみすぎて処理しきれなくなって、結局未完のままだけど、妄想にどっぷり浸って、布団に入ってからもあれこれストーリーを思い描いては、わくわくして眠れなくなってた。次の日は朝早くに目を覚まして続きを書いたりしたのはすごく楽しかった。この時間を終わらせたくなかった。たまにうっかり原稿用紙がなくなりそうになると不安になって、字を小さくしたり、撥音や句読点を前のマスに押し込んだりして節約してた。
詩も書いた。
詩の体裁をとっていても、今思えば、あれは目の前にあるものを見たまんまに記録しただけのものだったのに、光景が目浮かぶようだって言われた。言葉で絵を描くことができるんだって、そのとき子供心にすごく衝撃だったのを覚えてる。
何を書いても、必ず添削の先生は面白いねって興味を示してくれた。続きを期待してくれた。一緒に次の展開を想像してくれた、冒険のヒントを与えてくれた。期待されるともっともっと書きたくなった。伝えたいことがたくさんあった。思いに任せて本当に自由に書かせてもらってたから、作文は好きだった。学校の読書感想文は少し窮屈だったけど、それも書き始めるまでのことで、いったん鉛筆を握ったらわりとすらすらと筆が自然に進むような感覚だった。
大人になるにつれて、思いに任せて自分の考えを表現しているばかりだと、発言がどうしても論理的でなくなってしまうのが仕事に差し支えるようになった。それで、できるだけ先に頭の中で考えを組み立てて、骨組みを完成させてから言葉にするように練習してるところなんだけど、そうした練習を続けているうちに、何か別の感覚を失いつつあるような気がしてた。なんだか、昔のように筆が走るのに任せて、考えるより先に繰り出される言葉を追いかけていくうちに、自分の気持ち、自分の答えに導いてくれるような、そういう感覚を長いこと味わっていないことに気が付いた。タイピングのせいなのかなあ、手書きの頃は、肩肘張らずに自然なスピードで筆が進んでいたような気がする。程よいペースでスムーズに言葉が溢れてきていたし、リアルタイムで表現しつつある言葉の繋がりに、頭がちゃんと付いていけてた気がする。そのまま段々ノッてくると、今度は思考が追い越して、ペンの進みにもどかしさを覚えたりもしたものだけれど、そういうときに感じてたドキドキもなんだか薄くなっているようだ。タイピングするようになってから、打ち出される言葉は加速するばかりで、脳が必死で追いかけている感覚。たまにブレーキをかけたりすらする。自分の気持ちは置き去りにして、正しいか正しくないか、良いか悪いかだけを判断するマシーンと化しているようだ。麻痺してきているのかな。
今日は何だってこんな時間に目が覚めちゃったんだろう。年末、少しだけ余白の時間ができて、気持ちがゆったりしたせいで、不意に昔のことを思い出した。この機会に、ほんのちょっとスピードを落として、ときどき自分の気持ちのままに綴ってみようかな。これから何が起きるんだろうってわくわくしたり、わけも無く泣きたいような切ない気持ちをまた味わえるかな。