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2008-01-15

ポジティブ教自己責任教=ネガティブ

1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51

「ちょっと」を毎日。
  • 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
  • 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。
  • 毎日努力している人にはどんな天才も絶対に及ばない。断言していいです。
  • 大事なのは毎日(毎日じゃなくてもいいんだけど、常日頃)続けること。
  • とにかく結果を焦らない。落ち着けって。
  • 今日努力が実を結ぶのは、だいたい1年後。のんびり行くしかないですよ。
  • ちょっとだけやる。「ちょっと」が超大事。
  • ダイエットしようと思って、いきなり5キロ走るから辛くなる。初日は着替えて玄関出るところで終了。
  • だけど、やろうと思ったらその日のうちにやる。絶対やる。1歩踏み出すだけでいい。
  • 今日行動を起こさないと、ゴールにつくのが1日遅れるよ。
  • あんまり遅れると、そのうち門が閉まるよ。
バイオリズムに逆らわない。
  • 疲れたら休む。
  • 悲しかったら眠る。
  • しんどかったら泣く。
  • 1日1度は外に出る。家の周りを散歩するだけでもいいから外に出る。
  • まだ起きていないことに絶望しない。
  • イメージ現実をごっちゃにしない。

最初にここまで読んだとき、よくあるポジティブシンキングのメソッドの一つだと思った。それで長すぎるので読むのやめたのが、何時の間にやら4桁に達するブクマがつくお化けエントリになっていたのであった。

そして反響を呼び、異論も出現した。

実録・自己責任教の信者たち - HINAGIKU 『らめぇ』は元エントリも、それに異を唱えるd:id:fromdusktildawnもひとしく自己責任教であることには違いがないと喝破している。

なるほど、どちらも「成功するためには何をすればいいか」ということを問題としている。そして、guri_2の「地道な努力」とfromdusktildawnの「効率的な、正しい努力」のどちらが正しいのかはかなり哲学的な問題であって、一意の答えがありそうではない(というか、fromdusktildawnの言う努力も本人が考える以上に地道なものである。「最小の努力」などと言っておきながら、「意識を研ぎ澄まして」、「目を皿にして」チャンスを捕らえろ、などという。結局たゆまず努力するしかないのだ)。

さて、guri_2のエントリに戻って、先の引用の部分以降を読んでいくと、いきなり

気持ちよく過ごせないのは周りじゃなくて自分が原因です。

とあって、驚く。「イメージ現実をごっちゃにしない」はずではなかったのか。日照りが続くのは自分たちが神様に生贄を捧げていないことが原因、って原始人かよ!

その後の「何かのせいにしない」も、全ては自分のせい=自己責任ということになるだろう。

それにしても「とりあえず100万円は貯めておく。余裕が出る」と言っておきながら、y_arimのコメントに応答して、

ただ、月並みですが電気ガス水道をたびたび止められ、狭い部屋で共同生活しながらも夢を追いかけている友人を見ていると、デッドラインはいくらもで下げられるのでは、と思ったりします。

というのは何なのか(実は見当がついているのであるが、ここでは言わない)。そのほか、アドヴァイス間の矛盾が多々ある。

さて、それでもコメント欄ブクマには「勇気がでました」という反応が見られる。それ自体は良いことである。こうした自己責任教がどうして人をポジティブな気持ちにさせるのか。

アル・ゴアの『不都合な真実』を見た人は「不都合な真実」を見せ付けられたにも関わらず、絶望は感じなかったのではないか。それはゴアのエンカレッジメントの上手さがある。深刻な環境破壊現実にも関わらず、ゴアはフランス人権宣言、リンカーン奴隷解放ロシア農奴解放ガンジーの非暴力主義による植民地解放運動などを引き合いに出し、「人間はこれまで不可能と思われてきたこともやってきたじゃないか」という。こうした楽観主義が観客を勇気付けるのだ。つまり、人間には環境問題に取り組む「責任」もあるが問題を克服する「能力」もちゃんと備わっている、「能力」があるからこそ、それに応じた「責任」を負うのだ、ということを指摘する。

同じような現象がguri_2のエントリにも見られる。つまり、エントリ勇気付けられた人は(エントリを見るまでは勇気がなかった人であり)、そこに自分の底力、潜在能力があることを発見したのである。「自分はまだまだ頑張れる」のだと。自分に自分の人生コントロールする能力あるからこそ「人のせい」にはしないのだ。

逆に考えてみよう。自分のおかれている立場が自分以外の「何かのせい」だとすると、それをコントロールする能力はないし、そのことに本人が責任を負う必要は無い。誘拐犯に拉致され監禁された人間が、脱出できない自分が悪い、とか「もっと注意して歩いていれば」などと考える必要がないのと同じことである。

ところが、最近では(イラク邦人拉致事件で明らかになったように)上記のようなケースにすら、自己責任を適用しようとするのである(性犯罪被害者への「夜道を歩いていたのが悪い」というような、セカンドレイプはそのはるか以前からあったが)。

ここにguri_2の問題点がある。「何かのせいにしない」、「自分が原因です」は無前提に使用できる言葉ではないのだ。

何か重大な不幸がその人を襲ったとき、「自分が原因だ」、「自分が悪い」と考えること、それは普通ネガティブシンキングというのではないか。「自分の家族が不幸せなのは自分が原因だ」、「自分のチームが成果を出せないのは自分が足を引っ張っているから」、「子供が難病にかかったのは自分が墓参りを怠ったから」……。こういった思考法が容易にうつ病自傷行為自殺カルト宗教への入信といったさらなる不幸をもたらすことは想像に難くない。もっとも、guri_2は「そんなときもあるさ」(これは明らかに失敗を何か運やツキのようなもののせいにしているのだが)とか「できないことが多くてもくじけない。続けていれば必ずできるようになる」、「だってオレも↑これの9割方できてないもん」という安全弁を用意してはいる。

しかし、無制限な自己責任論が過剰に自己処罰的な傾向を生み出すということにはもう少し敏感であるべきではなかったか。テレビドキュメンタリーに登場する若年ホームレスネットカフェ難民が一様に抑うつ状態にあって「自分が悪かったからこうなった」と発言するのをguri_2はどう見ているのだろうか?

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