はてなキーワード: 不完全性定理とは
「3の倍数と3の付く数字だけアホになる」世界のナベアツが整数列においてどの程度アホになるかを判定する、所謂「世界のナベアツ問題」があり、どうやら死ぬほど続けていくと、限りなく100%に近い確率でアホになるようであるが、この問題に対しする数学的アプローチは理系の方々に任せ、数学が病的に出来ない私としては、この問題に対し哲学方面からのアプローチを試みたいと思う。
「クレタ人は嘘つきだ」と(クレタ人の)エピメニデスが云った。というもので、仮にこの命題が真だとすると、エピメニデスは嘘つきなので、『「クレタ人は嘘つき」』は嘘になるはずなのだが、本当のことを云っていることになり、矛盾が生じる。
逆に、この命題を偽とすれば『「クレタ人は嘘つき」』という発言は嘘になり、矛盾が生じる。
『「私は嘘つきだ」』という嘘をついたエピメニデスは正直者だ、ということになるのだ。
つまり、「3の倍数と3の付く数字だけアホになる」と発言するナベアツは、この説明時に「アホ」にならなければならないのではないか、ということである。
ゲーデルの不完全性定理によれば、『「事実(観測された事項)」が定理に合致する』ということをもって初めて「『証明』として完結することが出来る」ということから、ナベアツのアホについての説明はできないこととなる。
私が数学が嫌いな理由は、解が一つに収束することである。
「世界のナベアツ問題」について、どのような回答をするか。
京極夏彦なら「世の中にはアホなナベアツなどありませんよ。アホだと感じるなら感じる者が無知なだけです。」というだろう。
村上春樹なら、「完璧なアホのナベアツなどといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」というかもしれないし、
サン・テグジュペリなら「大人は、みんなはじめはアホだった。」というだろう。
問いに対して、バラエティーに富んだ答えがある、哲学的な命題を愛して止まない。
そして、「2の倍数と2が付く数字のときに感じる滝川クリステル」企画の実現を切に願う。
2拍子で喘いで、20から29までラッシュ、みたいな。
「俺も昔そこにいたんだよ」
「知ってますよ。聞きました。」
「なんでそこに入ったの?」
「面白そうだなあと思ったからです。」
「あー、そうだよな。」
疑似科学だのなんだの言ってもな、結局何かを信じている。
すべてを検証することは不可能だ。何かに頼らなくちゃならない。
だけど、なんていうの…俺の人生を検証する人間は俺しかいないじゃない?違う?
大会社の方が結局安心とか、
好きなことを仕事にしてもやっていけないだとか、
車を買っても仕方がないだとか、
君の主義主張やこだわりはさ、、、何なわけ?意思なわけ?妥協な訳?
それは試されているわけ?
試されていないならなぜそう言うわけ?
たいていの人間に当てはまるから君もそうであるわけ?
君が試すために生まれたのではないのなら、今すぐ死ぬべきだ。
君のしようとしていないことが、明白な真実であると君が信じるならば。
さよなら、凡人。
以上の混濁は主に以下の混濁より。