いまさらだけれども。なんていうか、自由について思ったことについて書く。
個人的に、規制論が出てくることは悪くないと思う。というか、むしろ喜ぶべきことだと思う。表現をめぐる、とっても正常で健全な構造がある証拠でしょう。
多様な見方があるからこそ文化は成熟し、研磨されて受け継がれていくんだ。提示された疑念がよりいっそう文化に付加価値をもたらす。
ただ、その際に、議論は推奨すべきであっても偏った結論に辿り着いてしまっては駄目なんだと思う。偏った意見同士がぶつかり合うごちゃごちゃした議論こそ第一の目的とするべきなんでしょう。
結果として、とてもあいまいなルールしか生まれないかもしれない。ルールなんて生まれなくて、一回りして始まりに戻ってきてしまうこともあるかもしれない。
でも、きっとそれでいいんだと思う。どのような形であれ、積み重なった意見が肥沃な土壌を生み出し、また議論の球根を芽吹かせて、ぐるぐるぐるぐる表現の自由が語られていくんだと思う。
角川文庫のしおりに、自由って案外不自由なのかもしれないとかなんとかっていう一文があった。これって、かなり正鵠を射ているような気がする。
自由であればあるほど個人は幸福になれるのかもしれないけれども、社会的動物としての人には害悪が多くなることがあるのかもしれない。
人は自由に向かって不断の努力を続けなければならない。それは紛れもない事実なんだろう。表現することを邪魔する規制に立ち向かうことには絶対的な意味がある。
でも、その果てに自由を手にしてしまったら駄目なんだ。自由であることを実現してしまったらおしまいなんだ。
そんなことしたら、個人としてではなく社会的な存在としてひずみが生まれてしまう。公私の境界が取っ払われてしまう。私の自由で誰かが傷つくこともあれば、誰かの自由で私が傷つくこともありえてしまう。
だから、ずっと挑み続ける。決して辿り着かないように、前進を続ける。そうあるべきなんだと思う。
たぶん、手に入れることがとても困難な価値観――平和とか自由とか――というのは、そこへ辿り着くために足掻き続けることこそが実質的な価値なんだろうな。
ぐだぐだだけどいいやこれで。