職場に彼女が来るようになってからもう半年、狭っくるしい事務所が、にぎやかになった。
事務所といっても、契約のあるメーカーの工場向けの派出所みたいなところで、あるのは来客用の机と、観葉植物と、テレビと、所長の机と、ぼくの机だけ、それがパーテーションで適度に区切られている。工場を出入りする大型トラックの騒音が聞こえる以外はいたって静かで、ときおり電話が鳴って、至急の図面が飛び込んできたりする。いつもは無愛想な所長と黙々と仕事をしている。
そんな殺風景な職場に彼女がやってきたのは、メーカーの研修が終わった6月からで、なんでも技術部の連絡係に配属となったという。
美人というよりは愛嬌がある子で、大きな図面用のファイルを抱える姿はすこし気の毒に思えるほど、小柄。元気いっぱいというよりは、感情の起伏が大きくて突拍子もなく、よく言えば機動的で、わるく言えば気まぐれな子で、めまぐるしい。
「ねえ、聞いてくださいよ! 技術部で今年は送別会やらないっていうんですよ!」
「はあ……」
彼女にとっては事務所はグチのかっこうの吐き出し場所で、届け物ついでに、お茶をすすりながら、あれこれと技術部の話をする。本来であれば仕事中であるのだが、クライアントの近況が分かればこちらも都合がつけやすいとの所長判断で、ぼくがそのグチ聞き役に回ることになる。
まあ、考えてみればかっこうの連絡役。
しかし、困るのは、彼女はたいへんにいたずら好きなのだ。
「そういえば、奥さんとかいらっしゃるんですか?」
「いえ?」
「あー、じゃー、わたし立候補しちゃおうかなぁ!」
とかは序の口。
「こちらにいらしてから日が浅いんですよね?」
「え? 半年ぐらいになりますが」
「上司から聞いたんですけど、ここの所長、ゲイだって話ですよ? 前にここに勤めていた方も、迫られて本社に転属願いを出したとか。ちゃんと確認して拒絶しておいた方がいいですよ? わたし心配なんです」
しばらく悩んでえいやっと所長に聞いたところ、ぽかんとしながら事情を聞かれる。彼女から聞いたと話すと、なにか気付いたのかおかしそうに笑う。
「きみ、それいたずらだよ。そうだね、あまりにも静かだから心配したのだろう」
達観したように所長は言う。
たしかにそれ以来、所長とは気さくに話すようにはなったが、一週間後に彼女がやって来て、してやったりとくすくす笑うのには閉口する。感謝してくださいよ、と得意げな鼻がしらに書かれたまま図面を渡されると、次はどんないたずらが待っているのかと構えてしまう。
それでも意気揚々と早足で帰って行く姿におもわず見とれる。
いや、違う、からかわれているだけだ。
たしか8月に入ってからだったと思うのだけど、元気のない彼女をみて気がとがめる。
「どうしたんですか? なにかあったんですか?」
お茶を出しながら声を掛けると、エアコンが寒いとぷちりと切られる。
「もう、どうしていいのか、わからなくなっちゃって」
「なんです? 話なら聞きますよ?」
ちょうど仕事も空いていたところで、ゆっくり座ると小柄な姿がよけいにちいさく見える。ぼくがのんきなのにほっとするのか、お茶をすすって話し始める。
それは壮大な武勇譚で、あまりのスケールにくらくらする。
「それで、生産部に掛け合ったんです。ちょうど、事務の女の子と仲良くなって結託して。だっておかしいんですよ、技術部が依頼を出しても応じてくれるのは、第一月曜日に決まったスケジュールに載ったものだけ。緊急の案件もあるんです。それで、わたし、怒って経理部に事情を話しに行ったら、君だれ? ですよ? 技術部の連絡係ですと言ったら、ああ、新入社員、君、誰の権限で動いてるの? だって。だから課長を昼食に誘って…」
「ちょ、ちょっと待って」
ぼくはその話をまとめようと、考え込む。
どう考えても彼女はメーカーの一工場に長年染みついた慣行を刷新しようと、なんの権限も持たずに行動している。
(どんな度胸してるんだろう……。しかも正規ルートを一切使わずに……)
「つ、続きをどうぞ」
「所長、分かりましたよ。最近、図面の依頼が滞っている理由」
「ああ、聞いてたよ」
新聞をたたんで、コーヒーをすする。言外に、おまえなんとかしてこいと言っていた。
「わたし、どうしたらいいか」
よくぞまあここまでと見事なぐらいまでにぐちゃぐちゃだった。
彼女がそのおかしな慣行を正したいのは分かる。
しかし、問題はやり方だった。かなり行き当たりばったりに、反射的に行動するので作戦というものがまるでない。しかし、その行動力と持ち前の機知で、その場だけは切り抜けてしまう。それで結果的に工場中を混乱に陥れ、その矛先が当然ながら彼女に来てるのだ。
「えーと、そうだ、図面にしてみよう。そうすれば分かりやすい」
ぼくは製図用紙を机に広げ、その上にそれぞれの利害関係を描き出していく。
「生島課長」
「先崎さん。この人、本社からの監視役」
壮大な人間関係が浮かび上がりはじめるのにぼくは興奮を感じる。窓の外に見える工場内の人間関係の俯瞰図のように思えてくる。これを彼女は全部動かそうとしていたのだ。しかし、まったくのきまぐれで。
「すごいですね、お得意なんですか?」
無邪気に聞く彼女をちらっと見て、ぼくは答える。
「うーん、まあ、東京の事務所にいたとき所内がめちゃくちゃで、こんなのばっかりだったよ」
(規模はまったく違うけど)
書き出し終わると、それを眺める。
シャープペンを消せる蛍光ペンに握り替え、あちこちに印を入れていく。
「ほら見て、ここ、利害が一致している。柳さんと南町さん。ここに先崎さんをぶつけると動くんじゃないかな? 業務時間の効率化で」
「あ、気付かなかった。そうするとここが動くかも?」
「この人次第だね、君田さんってどんな人?」
「いけるんじゃないかな?」
「どうかなぁ?」
ぼくと彼女との作戦会議は就業時間まで続き、おおかた把握したのか、彼女はよしと気合いを入れて帰って行く。ぼくはその後ろ姿を見ながら、ため息をつく。
(すごいな、新入社員なのに。あんなにちいさいのに)
振り返ると、とたん、のんきな自分が恥ずかしくなった。
幸運の女神というのはきまぐれなもので、それをつかもうとする者をときとして突き落とす。
しかし時として戦場に現れるジャンヌ・ダルクのような女性は味方に勝利をもたらし、誰もが彼女を聖女やら幸運の女神ともてはやす。
果たして、幸運の女神の住み着いた軍が無敵を誇ったのは、たった1人の女神により士気が上がったせいなのだろうかと、ぼくはしばしば疑問に思っていた。男ばかりの軍に女性が現れるならば、士気が上がるよりは混乱するのではないか。特にそこに悪意がひとかけらでも入れば、いくらでも混乱は作り出せる気がしてくる。
彼女の後ろ姿を見て、長年の疑問が氷解しそうな気がしていた。
ああ、違う、きっと幸運の女神とは彼女のような姿をしているのだと。
それからというもの、彼女はしばしばぐちゃぐちゃになった案件をぼくに持ち込むようになり、グチ混じりの冒険譚をぼくに聞かせてくれるようになった。
そのたびにぼくは製図用具を取りだし、現状がどうなっているのかを彼女に把握して貰う作業をする。
それで、彼女はどこをどうすればいいかを理解して、また工場へ戻っていく。
ときには、ぼくに同伴を願い、ぼくは入ったことのなかった工場内を歩き回る。
彼女のおかげで、どういう風になっているのかはおおよそ把握している。
「ああ、製図屋さん。あの9末の図面、もうちょっと待ってね、時間かかるかも」
「え? どうしたんですか?」
「ちょっと困っちゃってねえ」
顔を覚えられると、すぐに相談がはじまる。
「こうしたらどうですか?」
「お、いいねぇ」
あの一件があってから技術部からは多くの図面が入ってくるようになり、しばしばするこういった会話が、電話だけだった頃より、効率をよくしていた。そして何よりも窓から見ていた工場の隅々までが分かるようになり、ぼくのちっぽけな世界は格段に広がった。
そして彼女の持ち込む相談は、工場が抱える問題をぼくに伝え、彼女の問題を発見する目は確かだった。しかし、彼女は病巣を発見しそれを鷲掴みにして振り回すのは得意なのだが、それを治癒し秩序だった形に戻すのが苦手なのだ。
そして、ぐちゃぐちゃになって、ぼくのところへやってくる。
ぼくの勤める小さな事務所でも、彼女のがんばりに負けじと所長と2人で、業務改革に乗り出す。気付いてみれば、本社でも数年来の念願だった改革が完了してしまい、あっけなかったと所長と2人で笑い合った。
彼女のあのあらしのようなエネルギーを見ていると、こっちまで頑張らなくっちゃと思い始め、それがあらゆる方面で好循環を生み出していたのだ。
彼女は停滞を嫌い、あらしのように暴れ回り、古びた慣習やらしがらみを断ち切ろうとする。しかし、あらしにはまき散らすことしかできず、そのまき散らしたあとを片付ける協力者が必要なのだ。
戦場での幸運の女神は、軍の中にはびこっていた非効率やしがらみを断ち切っていたのではないだろうか。そして影のように控える協力者たちがその後の秩序を作り上げていたのではないか、そう夢想する。
現れた幸運にしがみつき、閉じ込めようとし、縛り付けようとすれば、それはきっと災厄へと変貌する。
なんたってそれは自由奔放なあらしのような姿をしていて、巻き起こされた混乱の中にちゃっかり実利をとれる人だけが、それを幸運と呼んでいるのだから。
「ご迷惑ばかりですね。もうこれっきりにしようかと」
あわてて、ぼくは立ち上がる。
「と、とんでもない! うちの事務所はあなたのおかげでものすごく順調に行っているんです! 迷惑だなんて、そんなことけっしてありません!」
彼女はぽかんとしてぼくを見る。
「わたし、なにもしてませんよ? あなたには」
ぼくはなんと答えようかと考え込む。
(女神ってのは大げさだよな……)
「あなたは、ぼくにとって、幸運の妖精みたいな人なんです。だからずっと頼って欲しいんです」
彼女の表情が引きつっていくのが見えた。
(しまった……、おもいっきり引かれた)
こんな長いなら自分のブログにでも書いたらいいのに
sneg……じゃないな、下手な小説より面白いから続きを待ってるぜ。
http://anond.hatelabo.jp/20091217224219 つづき。 「やっぱりラオス。ラオスに決まりです」 「なんでまた、そんなところを」 ぼくはガイドブックから視線を上げて、うれしそうにする彼...
幸運の女神考 http://anond.hatelabo.jp/20091217224219 将来の夢考 http://anond.hatelabo.jp/20091219150733 デート考 http://anond.hatelabo.jp/20091219235552 けっこう楽しめたので続きが読みたい