親が熱心なキリスト教徒なので、自分も生まれた時点で既にキリスト教に縛られていました。
他から強制されたものを受け入れられるわけもなく、「行きたくない」と言っても全て却下され、嫌々ながらもずっとその団体に属していました。
自分が属していた教会では、老牧師が幅を利かせていて、教団の中でもちょっと特殊な教会でした。
教団全体としては「世界平和を祈る」というような目標を掲げていたのですが、その教会は地域住民の平和が最上目標。
老牧師が前者について全く触れない訳ではありませんが、やはり他の牧師に比べて頻度は明らかに少ないものでした。
「○○さんの病気が治りました。祈りが届いたのです。みなさん教徒を増やしましょう。」
まぁ、世界平和を唱えるよりはずっと身近な問題だし、キリスト教という観点で言えば間違ってるわけでもありません。
ただ、その教団に属している意味はあるのか?という疑問がずっとありました。
教団は明確な存在意義と目標を掲げていて、筋も一応は通っているけれど、この教会はなんだか目標が違う方向を向いている気がする。
言っている事とやっている事が違うから、信用できない。
ただ、自分の意思で属していた訳でもないので、それ程気にはしていませんでした。
全く信じる気が起きなかったというだけで。
それよりも、貴重な休日を搾取されることが一番耐えられなかった。
・水曜日は夜から祈りの集いがある。
・日曜日は午前中に礼拝、午後は教会行事若しくはその準備があるため、殆ど無いに等しい。
・長期休暇には何かしらの合宿がある。
これら全てが強制で、この生活が就職するまで続きました。
当然、嫌だと訴えたことが全く無かった訳ではありませんが、全て「そんなことを言うお前が間違っている」といった論法で却下されました。
中学生になった頃、以下のようなやりとりがあったことを今でもよく覚えています。
教会の教師(以下教)「あなたは教会に自分の意思で来ているの?それとも親が言うから仕方なく来ているの?」
自分「・・・(親が強制するからに決まってるだろうが。でもそんなこと言えばどうせ叱られるんだろ?)」
教「ねぇ?」
自分「・・・(教会の教義としてウソはダメとか言ってたしなぁ…ウソ言うよりは正直に言った方が正しいよな?)」
教「・・・・・・・・」
自分「・・・親が言うから・・・」
教「だからそれじゃダメって言ってるでしょう!?自分の意思で来なくちゃ!!」
自分「・・・ハイ(だめだこいつ)」
その後は(…強制してるのあんたらじゃん…)とだけ考えて耐え忍びました。
その頃は本当に嫌で嫌で仕方がなかったので、その雰囲気が伝わったのでしょうね。
何故か諦めがついたのもこの時でした。こいつら狂ってるなー、こりゃ無理だわ、と。
ここで接点を断つべきだったのですが、田舎の割に規模の大きい教会だったので、地味に信者が多く、大体がご近所さんです。
家族全員が信者ということになっているのに、いきなり自分だけドロップアウトしたらどうなってしまうのか、当時は想像もできませんでした。
ようやく転機が訪れたのは、就職して数ヶ月めの、一人暮らしを始めたとき。
もう縛られている必要なんてない、と気づきました。
近所に教団に属している教会があり、地元の教会から紹介もされていたのですが、1年くらい掛けて疎遠を装い、今では全く行かなくなりました。
地元ではこのことはもうバレていて、たまに帰ると色眼鏡で見られているなと感じますし、母にも心労を掛けているんだろうなとは思いますが、もう通う気は全くありません。