2007-10-21

[]創る者の話。

取るに足らない末節の部分に気を取られ、本質を見失う。
だから往々にして、どうでも良いとても下らない事で 折れる。 無様な音を立てて。
それは言い訳でしかなく、時には本当に好きでは居られなかった、という証拠をまざまざと見せつける。
本当に愛していたなら、裏切られた等と決して言う筈があるだろうか。

まず最初やりたかった事は何なのか。
それをどうでもいいものに惑わされて見失ってしまう事ほど悲しい事は無い。
経緯や背景がどうであるとか、後から付け加えられた義務感が重荷なら振り切ってしまっても構わない筈だ。
形の無い言葉を振り払ってしまう程の価値があるのならば。信じているのならば。その程度の力ぐらい充分に有るだろう。

本当に大事にしているのは何か。
それを何故忘れるのか。
それとも本当に大事ではなかったという事なのか?
#ここで「いやそんな筈は無い!」と思うのなら、迷っている場合じゃないと思いますが

そこを譲り渡してしまった瞬間、作品は何かの奴隷になる。
創作である限り全ては第一に作品の為であり、いずれの所有者の為に限った物に成り下がるのは不毛だ。
 #「いずれの所有者」とは 創作者と受け取る側 両者を指して言っています。
逆に言えば、誰かに受け入れられない事を恐れて
本来目指そうとした姿を歪めてしまうのは本末転倒である、という事です。
そもそもそれは妄想で、所有者の数が不定(時間と共に増減する)である以上、断定してはならないと思います。
良い反応を期待するにしたって、出てみないと本当の姿は解らないですからね。

「全ての願いを満たす」と作品自らが望まない限り(それがコンセプトとか原点・究極の目的の場合、という事です)
一切の迷いや厭いは多くの人にとって喜ばしくない不純となり得る、という事です。
ましてや、現実として人間には尽くす力に限界がある。 はっきり言うと言い訳だが、これは動かない事実だ。

少なくとも最初からそれが見えている人(露骨に例を挙げるとするならZUNさんネー)は聡い。そしてごくごく僅かだが、そうでない者より強い。
目的に対し盲目ではないが(時に、見えすぎている事は残酷である)、そこへ到る道が最初から全て見える事は決して無い。故に紆余曲折するのだ。
だが周囲は不安である。 自分達の願い(?)が満たされるかに期待を持ってしまうからこそ。
地図の断片を持っている可能性はあるが、基本的に目標を知らないので盲目だ。 故に事有るごとに一喜一憂する。
それぞれの立場で、自分が出来ると思う範囲で足掻く事も、自分がそうしたいと思っている以上良い選択だろう。
だが、そういう意味では最初から期待していない、というのも案外一つの利口な判断かもしれない。
少なくとも思いこみが邪魔をする事や、視野を曇らせる感情的要因…つまり要らない情報の垣根を自ら作る、という事は無い筈だろう。
どんなに自分を強く突き動かすものがあったとしても、それが本当に自分を動かすに足りる物か否かを検める事も大切だと思います。

その垣根が自分を覆い尽くす時、世界は腐り、そして程なく息を引き取るのだ。
時として下らないものが情熱を殺す。 認めたくはない、悲しいけれど殺されてしまう事がある。
私の中にもそういう物が確かにあって、出来るものなら全部大鍋で煮込んで食らい尽くしてしまいたい。

そんな小さな世界のお話。(読み返してみて、視点が一貫してないなあ)
むしろ、こんな話が出来る時点で それは既にメルヘンなのですけどね。




例によって つれづれです。 短いので興味のある方のみどうぞ。




多少激しい文章表現もありますが、攻撃ではなく挑戦的な意味合いで悪意ではありません。




有り体に言ってしまえば、物事が出来てしまう事そのものにはそこまでの価値は無く
そこまでの過程にほぼ全てがある、と言う事になります。

もしもその間に何も無ければ、あるいは限りなく薄ければ
人がそれを行う事そのものに意味が無い というより
それは既に完成してしまっており、人が手を加える余地など無いか、
又はそれが出来ているつもり という事になります。
人が手を加えなくても回る世界であるとしたら、
それはゲームコーナーでコインを入れずにレバーを弄っている子供の姿に似ている。
実際手を加えなくても回ってしまうのですが。 そして手を加えたところで回る保証など無い。
押した力に応じた手応えが返ってくるだけだろう。

思えば、コインを入れるというのは知らず知らずのうちに その決意を表していた行為なのかも知れません。
理不尽な世界に身を委ねる不安と、そこに進もうというささやかな意思がワンコインだったのではないか。

全ては無駄だから、無駄の中に無駄を探し出すしかない。
徒労を惜しむことなく、省みる事すらなく無駄を探しつづけているのです。
幸せ幸せのままでは終わらず、続きの話があると解っていても、
それを求めずにはいられないのですから。
それは期待ではなく、いや最初から期待出来るものではない事を知っているからこそ
ただ力を注ぎつづける と言う事かも知れません。



敵は倒せる様に設計されているだけであって、
基本的に倒されるために出てくる訳ではありません。破壊されるだけの物体のどこが敵と呼べますか
そうではない場合、他の敵を生かす為に囮として現れる場合か本当に弱い(あなたにとって敵の内に入らない)かのどちらかです。
敵には敵の都合があって当然なのです。 自分で都合の良い状況を作り出すしかありません。

全ての人間が最初から達成出来る確証が有る、というのでは
プレイヤーがわざわざ動かしている意義がありません。
まず「何とかしてもらう」のではなく、「何とかしよう」というのが大切です。
その為の武器は必要以上に搭載されているので、扱い方は各自で考えてください。

ですが極端な話、必要最低限のショットと避けだけでも充分な力を持っています。
自機は敵を遥かに上回る力を持っています。(そうでないSTGも珍しいですが……)
スペック上最強であるのに何故勝てないのか、その理由はどこにあるのか、逆に言えば違いをもたらすのは何なのか

自機はあの世界でのあなたの強さと弱さをダイレクトに移す鏡です。
経験の有無も影響します。 新しい世界ですから。(STGの基礎的なスキルと共通する部分も多いですが)
最も自由な存在はあなたです。全ての強さと弱さはを自由に伴なうものです。
雰囲気を味わうだけが全てなら、コントローラを握る理由は無い筈です
凶器を振り回すだけなら、人間でなくても出来る事なのですから。

色々な人がいる。それぞれ違った問題を抱えている。苦手な事も得意な事もバラバラ。
だから適切な難易度と言う言葉は実体を持たず、幻影でしかない。
それは上下の幅の問題であって、ベクトルの軸は一本ではない。そしてそこに中心はありません。
有り得ない”一般のプレイヤー像”に擦り寄って本懐を濁らせてしまう事は危険です。
初心を忘れ、核心は薄れ、誰にも伝わらない物になり下がってしまう罠があります。
人を選ばないというのは甘い幻想だ。本当にそれを目指すなら正直に人の数だけモノを作れ。

プログラムゲームを動かしているのではなく、プレイヤーゲームを動かすのです。
なぜならゲームの最後の要素はプレイヤーであり、もっとも自由で多様性の有る要素だからです。
だからゲームに動かされてはいけない。組みこまれてはいけない。何も与えてはくれないし、誉めてもくれないのです。
最も重視したいのは、あなたがそこに立っている意義を。 コントローラを握る意義を。
そう 全てはあなたの尊厳のままに。

……と、言いますが、私は
作り手本位でも、プレイヤー本位で作っているのでもありません。
全ては作品本位です。
もし仮に私が皆さんの事を大嫌いだとしても、作品が好きだと言えば そのように従います。
もし仮に私が皆さんの事を大好きだとしても、作品が求める以上の余計な事は極力しません。(ここで全くしないと言えないのが私の弱さです)
それだけは信じても良いです。

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