ぶっちゃけ、親友なんていようがいまいがどうでもいいとは思う。
ここって「友達がいなくて寂しい」的な書き込みが定期的に出てくるのだけど、友情信仰みたいなものがそれだけ世間に敷衍しているってことなのか。
あー、クオリアの話をしようとしてるのね。
個人的には解釈がどうであれ、最初に発生する感興こそが重要だと思いたい。
それを受け止める文化的側面というのはあくまでも副次的なものだと思うんだがなあ。
なぜならば,観測者の内に,こういう色は青い.っていう "青イメージ" があるから,空を見て青いって感じるのだから.
っていうのは解釈なんだと思う。
青イメージが事前にあろうとなかろうと、それを名付ける前に青イメージに該当する情報的インパクトが存在するはず。
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感情は原理的に予想不可能な領域に存在する、とオレは思ってる。
えとね、「幸せ」を評価しようとしてるみたいだけど、「幸せ」は評価じゃないよ。
空を見たら「青い」と思うだろ?
空を見て青いと感じるということが,幸せを感じると同じことであるのならば,それこそ
"幸せイメージ" を持っていなければそんなことは起こりえない.
なぜならば,観測者の内に,こういう色は青い.っていう "青イメージ" があるから,空を見て青いって感じるのだから.
何が言いたいのかよくわからない。
物質的側面てなんだ?
「幸せの形にバリエーションがあるか」という問いなら答えはYESだと思うけど…。
「今この瞬間に全員が幸せになって、一年後も同じように幸せである」
という状態は可能性としてはもちろん発生しうるよ。
同じような体験あるなー。
でも、無理して「表面的でない友達」なんて作らなくていいよ。
無いものを追い掛けるから、自己嫌悪に陥るんだ。
自己嫌悪で「こんな自分に友達なんて出来るわけが……」などと
しかめっ面してるヤツとなんか友達になりたくなんか無いよ。
えとね、「幸せ」を評価しようとしてるみたいだけど、「幸せ」は評価じゃないよ。
空を見たら「青い」と思うだろ?
「幸せ」は計測結果ではなく、一義的な感情です。
大学のどこかで他人と接点があるのなら、
ある程度仲良くなった「この人と友達になりたい」と思う人に、
その文章をそのまんま吐露すればいいと思うよ。
それで、引かれたらソイツとはそれまで。
でなかったら、仲良くなれると思うけどな。
自分から「閉じてる」ことに気づきなさいな。
君の間違っているところは、友人に自分の弱みを見せたら攻撃されると思っているところだろう。むしろ親しみが増す場合も多いよ。
このタイプの人(学歴ややよし、普通にスポーツも嗜むさわやか隠れオタ)はやっぱり増田に引き寄せられるんだろな。
決して自分でダイアリ持って精力的に日記書いてたりはしない。
普段は増田も他のとこでもReadOnlyだけど、「これは増田向けww」と思ってここぞとばかりに狙って書く。
なんかあくびが出てきた。
「幸せ」の定義がおかしい。
あくまでも主観的なものであって、他人と比較して得られるものではないよ。
「世界の全員が不幸」という状態は容易に考えられる。
なるほど、では、有る状態になれば幸せというのが物質的側面で存在するって事?
つまり、今このとき突然に、みんなが幸せという状態になったとして
1年後同じ状態だとしたら、みんなは幸せなのか?
あくまでも主観的なものであって、他人と比較して得られるものではないよ。
主観的なものとはなんだろうか.
幸せとは,直接的には本人の持つ "幸せイメージ" と "自分" との比較であり,他人との比較ではないと考えられ,他人との比較ではなく,主観的に自分を見たときの評価であるといえる.
しかし,"幸せイメージ"というものは他人からの影響を受け,形成,変化していくものではないだろうか.
直接的な,他人との比較,とはならないかもしれない(場合によってはなりえる場合もあるかもしれない)が,"自分" と比較する対象となっている "幸せイメージ" に他人というものは,間接的にではあるが関係していると私は考える.
「幸せ」の定義がおかしい。
あくまでも主観的なものであって、他人と比較して得られるものではないよ。
「世界の全員が不幸」という状態は容易に考えられる。
「自分がどういう状況でも満足し、誰も妬まない」という考え方を徹底的に刷り込む。洗脳する。
それだけでみんな幸せになれるよ。
その代わりいろんなものが発展しなくなると思う。
不幸や不満があるから色んな技術や娯楽が生まれるのだ。
幸せが主観的な比較だというのが、違うと思うという点に関しては理解した。
ただ、わからんと一言言われても・・・・・
こっちもあなたがなんでわからんと思ってるのか分からん
じゃ、そもそも幸せな状態ってどんな状態なんだ?
ただし、物質的な点でお願い、精神的な物をそこに入れると、水掛け論にしかならないし
このツリーの中での幸せは物質的側面の物であるから
自分の悩みとかいえる友達がおらん
今まで表面的な友達しかいなかった
その友達は好きだったけど、浪人中切ってしまった
なんだか浪人している自分じゃ友達とつりあわない
という意識があり
一日会えないかというメールがきてもそのたびごめんと断っていた
本当は会いたかったしメールもしたかったが
友達と浪人した自分じゃつりあわないと思って(ていうかもともとつりあわないと感じていた為余計に)会ったり話したりするのが恥ずかしくて
こっちからは全然メールしなかったし誘いにも答えなかった
そうしたらもともと少なかった友達からのメールは全くこなくなった
当たり前だ
自分がそう仕向けたんだから
寧ろよくいままでメールをくれたと思う
そんなこんなで今友達はゼロだ。
昔はクラスが変わるたびに無理して明るくして友達を作っていたが
大学では小中高と違って特に作る必要性もない上、もうそもそも作るのに疲れてしまい新しい友達もゼロ。
今の状態が寂しい、嫌だ、というわけじゃなく
これはこれで別にいいのだが
やはり友達がいたら楽しいだろうな
とふと思う瞬間もある
しかしどうせ自分が友達を作ったところで
また表面的なそれしか作れないだろう。
親とも腹を割って話すことができない自分では。
素晴らしい尊敬すべき友達もいたし、もっと彼女らと仲良くなりたいと思ってはいたが
素晴らしい人であればあるほど、「自分には不釣合いだ」と考え自ら身を引いてしまう癖があった。
もっと自分が「素晴らしい、尊敬されるような」人になったら、その時初めて自分に対し腹を割って話せる友達を作る許可を出そう
と高校生の時漠然と思っていた。
だがもうそんな人になることすら疲れてしまった。そもそもなれそうにない。
友達になりたいが
なったらなったでこの状態がいつまで続くのかが怖くて自分で壊してしまうし
なったらなったで相手に不釣合いな気がして自分で壊してしまう。
要するに自分は自分の汚いところを異常に見られたくないのだろう。
そんな心積もりでそもそも友達づきあいなんかできるわけがないのだ。
色々な諍いを含めた過程をふっとばして「すばらしい親友同士」の幻想だけを追い求めているのだろう。
いつまで続くのかが怖くて相手に自分の未熟な所を見せるのが怖くて
そんな覚悟で表面的でない友達が出来るわけがない。
友達に限った話ではなく、基本的に他人に弱みを見せられない。
弱みを見られないために必死でカバーする。必死で覆い隠す。
結局自分が異常に可愛いだけなのだろう。
攻撃されたくないのだ。
自分が可愛いから。
だから弱みを見せたくなくて、だから過剰に自分を守ろうとする。
全く最低の人間だ。
それでもこんな性格で20年生きてきてしまった。
最早今更変える元気もない。
つくづく自分が嫌になる。
自分を可愛がりすぎて、大事な物をいくつも失った。
バカだ。
かきくけこ なねななぬなに