2009-11-02

http://anond.hatelabo.jp/20091102194623

ちょうど3年前、私が23歳だった時、その考え方から脱した。22歳の時、まさにそんな風に閉塞感を感じていた。

自分が女であることをひどく不利に感じ、男はずるいとしゃにむになって無理をして体を壊して、でも意地を張ってそのくせ恋人結婚をにおわされれば結婚のことを考えていた。そして自由じゃない、何もできない、手足がもがれたようだとわめいていた。そういう時期も必要なんだと思う。

でも、遠い未来のことを考えていても選択肢が多い分女の人生というのは不確定だ。見れば見るほどわからなくなる。考えれば考えるほど定まらなくなる。そしてそれは本当に考える価値のあることなのだろうか?私はそう思った。考えていて、それで何か変わるだろうか、と。とにかく今できることもせずに遠い未来のことを考えて、あれもできないこれもできない、といって何も積み上げていない自分は何なのだろうかと自分を見つめなおして恥ずかしくなった。私には何もなかった。何かできると胸を張って言えることが何一つとしてあげられなかった。遠い未来は今自分がやらなくてはならないことをやらないいいわけだったと自分で認めるしかなかった。認めることができた。

実際のところ、見るのは三年先でいい。あなたは経営者ではないのだから、自分人生を考える上では三年先を見ていればいい。今日のことだけ考えているのではやっぱり頼りないけれど、5年、10年先を考えるのは経営者仕事だ。私たちはそうではない。いずれそうなるにしてもまだ20代なのだから、今はきっちりと足元を固め、3年先の目に見える範囲で希望を持って考えられる範囲で、将来を考えていればいい。私は三年前にそう思って、そして閉塞感を見ないようにしてやるべきことをやってきた。そして今、ようやくたどり着いた場所であの閉塞感はなんだったんだろうという気持ちになっている。

子どもを産んでも、一年休暇を取っても、元の職場に戻ってきて同じように仕事をしている人はいる。家事はちょっと苦手とか言いながら、でも理解のある旦那さんと家庭を営んでいる人がいる。以前と同じかそれ以上の業績をあげるひとがいる。周りの人も育児に関して非協力的ではなく、子供風邪をひいたと聞いたら心配してくれるひとがいて、早く帰れと言う上司がいる。子供が生まれたと聞いたらどんなに忙しくても仕事を調整して早く帰らせたりする。それが男女かかわりなく行われている。そういう職場に出会うことができた。私がやったのはただ、自分のできることをやって専門知識を一つ一つ確実なものにしていっただけなのに、そういう世界があった。私は三年先のことしか考えてなかったのに、いつの間にかそういう世界を選んでいた。

電車は混んでいるかもしれない。ホームからなかなか電車には乗れないかもしれない。一度降りたら最後尾かもしれない。でも、ただ黙って並んでいることだけが人生ではない。並んでいなくてもそこにいる人たちに弁当を配れば先にのせてくれる人がいるかもしれない。ただ黙って看板を張り替えていれば、次の駅でもやってくれと言われて電車に乗せてもらえるかもしれない(その代り次の駅で降ろされるけれども、でもやることはある)。死にそうな顔をしてうずくまっていれば代わりにのせてくれる人もいるかもしれない。いや、そもそも満員電車の中で、みんな同じ顔をして思いつめて吊革につかまっているだろうか。立っている人の中には誰かからのメールに微笑んでいる人もいるかもしれないし、途中駅で降りるためにそわそわしている人もいるかもしれないし、本を読んで涙ぐんでいる人もいるかもしれない。誰もが終着駅まで行きたがっているわけではない。誰もが終着駅のことを考えているわけではない。

あなたがすべきことは、今自分がやるべきことはないかを考えて、できる限りの最善を尽くして、そうやって一生懸命生きていくことだ。それが三年後につながる。さらにその三年後はまた道に迷っているかもしれない。寒いホームに佇んでいるかもしれない。あるいは特急列車に乗り換えて悠々ともっと先まで行っているかもしれない。それは誰にもわからない。でも、そんなに怖いことではない。

三年前の自分を見ているようでつい書いてしまった。余計なおせっかいだったらバカもいるもんだと笑ってください。あなたが毎日が楽しいと言えるように祈っています。

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