2009-02-07

レポートコピペ問題の問題」

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090206/1233931403

自分で考えて意見をまとめる」よりも「自分で考えたかのように意見を言う」ことの方が処世術としては対価・報酬ショートカットしてる感が強くてなんとなくいいかも的にレポート違和感なくコピペできちゃうんだろうなという話。

ブクマで「教育の問題」だとか「まずハウツーを教えるべき」だとか「文章の書き方教えてもらえなかった」とか言われてるけど、自分もそれなんとなくわかる気がする。教えてもらわなかったことで落胆されても知らねえよ!みたいな気分があるのかもしれない。

だけど結局、学生がこういうこと思っても特に反論なんかせずコピペ→提出しちゃうんだろうなと思うと、それはそれで変な感じ。だって、文章の書き方なんて、読書感想文やるくらいの年齢なら普通に会話で使ってるよな言葉で何かしら言えるんだし、「僕が読書感想文を書かない理由」くらいの感想文を書けばいいのに、とか思っちゃう。

でもそれをしない、というかできない、しようと思えない。そういう状況で「ハウツー」やら「書き方」やらを求めることは、自分には、単に評価される安全圏を求めてるだけに見える。それを求める気持ちもわかるけれども、そこで最終的に行き着くのは「内容も安全圏→優等生」か、「何が安全かわからない→コピペ」ってことだと思うわけ。要は、書ける書けない以前に「何を」書きたいかが重要なのであって、これを「ハウツー」と呼ぶのであれば、会話でも「ハウツー」を教えてやる必要があるくらいの、ものすごく基本的なことを自分は言っています。

もっと抽象的に、レポートコピペ問題の問題は、「精神の自由」みたいなものが、窮屈なところに押し込められ過ぎている点にあるんじゃなかろうかと提言してみる。日本が悪いのか、現代が悪いのか、両方が悪いのかは知らないけど、そのいずれにせよ教育が悪いとすれば、「自由に」と口では言いながら、実際は全然自由じゃないことは悪い。本当に自由であるべきなのは、結果の文章ではなく、文章を書く自分精神の動き(過程)であって、「ハウツー」やら「書き方」が生きるのも、その精神あってこそだということだと思う。逆説的だけど、そんなの教育しようと思っても、かなり難しいし、その難しいことが、教育なんだろうけど、とりあえずやっぱり、この精神が本領発揮してアウトプットするにも「コツ」はある。しかしこういう「書き方」とか「コツ」っていうのは、突き詰めて考えたら、やはり自分が書いていくことでしか得られないものだったりするわけで。

要するに書くってことは面倒くさい。嫌いな人は一生嫌いであるような類のものだと思う。書きたくない人がレポート出すことの方が間違ってるんだということで。

  • ありえない。お前が賢いだけだと思う。 普通に会話で使ってるよな言葉で何かしら言える そんなものは「作文」ではない。 それを作文として評価するという価値観はあり得るし、否...

    • 元増田です。確かに前半は何言ってるのかわかんなかったかも。反省。以下、括弧内の補足は私です。 「学校という価値観」においてはそれ(会話の言葉で書いたもの)は「作文」と...

  • レポートなんて所詮他人の思考の混ぜ物に過ぎない 出自を求める癖に個人の思考も入れろなんて馬鹿げた話 ブレンドの配分がシンプルすぎてはいけないし、 全く一から醸造してもいけ...

    • ドクターでもないのに、新しい意見なんて言うことが出来ないなんて当たり前だろ? 学会誌とかに載らないレベルのレポートは全部 練習だろ?コピペレポートは練習さぼるって事なん...

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