2008-09-23

愚痴と「いい人」

愚痴を聞いてくれる人にも差異があり、心の澱を消してくれる人が中には存在する。

単に大変だったねと声を掛けるだけでなく、

もう一歩能動的に踏み込んでくれることを私は期待する。

だがそれは人間の「徳」という点で善いものではない。

踏み込む」とは「一緒にリスクを負ってくれる」ことで、

一緒に愚痴の焦点となる人を批判・攻撃することだ。

勿論本音であれば嬉しいが、本心でなくとも

批判に参加した事実は残るのでリスクを交換・共有したことになる。

同時に「こんな事言っても私を嫌わない」という安心感

私だけが悪人ではないし、私以外が善人なわけでもないと感じ、自己嫌悪も軽減する。

逆に私は「いい人」に心を開くことができない。

たとえ愚痴を受け止め、やさしい言葉を掛けてくれても、

腹では私を心底軽蔑してるんだろうと疑心暗鬼になってしまう。

いい人=他人の悪口を一切言わない人は

「あんたの為に自分がリスクを負って、徳を下げる真似などしない」、

そんな一種の傲慢さを勝手見出してしまう。

かしこの「リスク共有」を一方的に強制してくる人がいたら、

してその人がさして親密でない場合は、

当然自分に火の粉ぶっ掛けてくることを覚悟しなければならない。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん