大学生、男。
この前実家に帰った時に、母が「自分は有能な嫁だった」というようなことを喋っていた。
なぜ有能なのか、と問うてみると、次のようなことを挙げてくれた。
・長男に嫁いできて、積極的に農作業を手伝った。(うちは兼業農家)
・男ばっかり産んだ。(うちの兄弟は全員男)
・産んだ子供は、みんな普通に育った。(障害を持っていなかった)
田舎とはいえ、こういう理由を挙げられて僕は少なからず驚いた。
母は1960年前後に生まれた、いわば団塊世代とそのJr世代の中間的な世代に当たる。
そのような世代でも、こんな保守的な考え方、すなわち「女は跡継ぎを産んで子育てと家事をすればいい」というような考え方をしているということに驚いた。
そして上記の”有能な理由”は、母が姑や舅に評価されることを前提とした物ばかりである。
今の人たちなら、「有能である」と言われれば、英語が話せるとか、仕事ができるとか、そういうことを思い浮かべるように思う。つまり自身の能力について述べることが多い。
しかし、母のいう”有能”は、ほとんど偶発的な事項、すなわち「不妊ではなかった」、「女を産まなかった」、「障害児を産まなかった」、ということに重点を置かれていた。
これは母が常に”見られる存在”であったことを示している。
田舎ではよくあることだが、どこどこの人が不妊だとか、離婚したとか、そういうゴシップはご近所さんを通じて地域コミュニティにくまなく広がる。
母の”見られる”という感覚はそこまで意識していたのではないか、とすら思える。
この話を聞いて、田舎での女性の立場の弱さや、コミュニティから”見られる”恐ろしさを改めて痛感した。
まあそんな母も「有能であった」が故に、今では家庭の実権を握っているのもまた事実な訳だけれども。
歳を取って世間の希薄さを実感するにつれ、むしろそのお母さんの意見に賛同するかな。 今の人たちなら、「有能である」と言われれば、英語が話せるとか、仕事ができるとか、 これ...
えー、でもさでもさー。農作業を手伝う手伝わないはどうにかなるとしても、その他のお母さんのいう有能さって、満たせない人もいるわけじゃん。それこそ本人のせいでもなんでもなく...