今朝、父方の祖母が亡くなったらしい。老衰らしく、眠ったまま今朝起きなかった。
らしいと言うのも全て離れて住む自分の母から電話で聞いただけで、出来れば来て欲しいことも言われた。孫は全員葬儀に出るらしいので。
四分の三の祖父母が小さい頃に亡くなっているので、亡くなった時の記憶があまりなく、大変さを実感できなかった。
今となれば、「ああ、喪服を準備しなくちゃな」「香典はいくら包まなくてはいけないのだろう」「どのくらい時間かかったっけ」「朝一で出れば間に合うかな」「忌引きで休暇取れたっけ」と考えなければいけないことがたくさんあって。
「来れそうもなかったら電報を打ってくれれば良いよ」とも言われて、それでもいいかとも思ったんだけれど、ふと父の姿が心に浮かんだ。
父の母ということは、当たり前なんだけれど自分に当てはめると自分の母に当たるわけで、自分も親を亡くしたらと考えると、いくら父も年をとったとはいえ、だからと言って悲しくないはずもないだろう。そう考えると、電報で済ますのも父がかわいそうだというか申し訳ない気になり、やはり出向くことにした。
父の兄のところで暮らす祖母とは何年も顔を見せたこともなかったんだけれど、たまたま、半年前ほどに会った。もう自分のことを覚えておらず、多分父のこともあまり覚えていないのかもしれなかった。今思うと半年前でも顔を見せてよかったと思う。
祖母を亡くしたショックはあまり大きくなく、そんなことを言うと非難されるかもしれないが、あまり大きくなく、それよりも死ってこんなに近くにあって、突然やってくるんだな、と思った。祖母はずっとおばあちゃんでおばあちゃんのままでいる気がしていた。入院していたわけではないので、余計にそう思ったのかもしれない。
だから、今元気な両親もこれから老いて倒れる日が来てもおかしくない。というか必ず来る。絶対に来る。今まではそこから無意識かもしれないけど目を逸らしていたんだな。祖母の死が両親の死を感じさせた。
これもまた偶然なのか、最近聴いた歌に「あんまり覚えてないや」と言う歌がある。
じいちゃんになったお父さん
ばあちゃんになったお母さん
歩くスピードはトボトボと
だけど覚えてるんだ 若かった日の二人を
あぁ きっと忘れない
アルバムにだって貼り付けてあるんだもの
ちゃんと覚えてるんだ ちゃんと覚えてるんだ
ちゃんと覚えてるんだ こんなに
ドライブに出かけたり お小遣いをくれたり
ちゃんと覚えてるんだ ちゃんと覚えてるんだ
ちゃんと覚えてるんだ こんなに
こんなことになる以前にこれを聴いて、不覚にも泣いてしまった。この頃物忘れがひどくて、昨日の晩の夕飯を思い出せないこともあるけれど、確かに昔のことはちゃんと覚えている。
普段親孝行なんかしていないし、あまり連絡も取っていないくらいなんだけれど、明日父の好きなお酒を買って帰ろう。
飲みすぎて死なれても困るんだけどね。
祖母の死が両親の死を感じさせた。 http://anond.hatelabo.jp/20070326170421 生きていることを。