2007-01-07

事実言葉にすること、事実のはずなのに

目の前に彼氏がいて、その目が近い距離から私を見つめていて、その瞳を見つめ返して、自分の両手を彼氏の両頬にそっと添えてみたりなんかして、ちょっといいムードになってくるそんな瞬間、「あ、この人って私の『彼氏』なんだ」という当たり前な事実が脳裏をよぎってしまうことがある。

そんなの当たり前なんだけど、そう思った瞬間に、どこかで脳味噌が冷めちゃうと言うか、下手したら空虚感さえしてきて、すごく変な気分になる。

自分自身のことについて、つまり(特に)主観的に認識されている事柄について、あえて(客観性を持つ)言葉にしてみると、何か変な感じがする。むずがゆい非モテ乙女彼氏ができちゃったどうしよう的な問題じゃなくて、それはあくまで一例。

他にも、自分に関する事実としか言いようの無い言葉を思い出すたびに、上みたいな感じがする。自分の年齢をふと思い出して頭の中で「○歳、○歳」と連呼してみたりすると、胸にぽっかり空洞ができたような虚しさに襲われる。

いろいろ要因はあるんだろうけど、一番大きいのは、言葉は単に事実を示すだけじゃないってことなんだろうな。例えば「彼氏」。どことなく軽薄な響きとか、メディアによって典型的に作られたイメージとか、あとは私自身の経験や価値観偏見なんかが、たかが「彼氏」なんていう短い言葉にぎゅうっと詰め込まれている(引きずっていると言った方がいいかも)。その詰め込まれた要素と、実態(私の「彼氏」という存在)が上手く一致しないとき、脳味噌が混乱して違和感を訴えて、上みたいな感じになるのかなあと思う。だったら違う言葉を当てはめればいい(恋人とか)と言われるかもしれないけど、単純に事実としてみたら、冒頭の「彼氏」氏は「彼氏」以外の何者でもないし、恋人ってのは言葉として使い勝手が良くないので、結局「彼氏」に落ち着いてしまうのだ。

年齢も同じだ。かつて「17歳」が騒がれたように、「30歳」が三十路として特別のニュアンスを持つように、年齢は単なる生存年数を表すわけではない。社会属性イメージやその他諸々が、ただの数字のくせに恐ろしい分量でくっついている。

本当に言葉とは、つまらない単語一つ取ってみても、辞書意味では語り尽くせないものであるなあ。

さて、変な感じとか虚しさとかって、結局何なんだろ。一致しないことへの違和感、ぴったりの言葉が無いもどかしさ、言葉の方から私を規定してくるような圧力、それに対する抵抗感(あるいは諦め)、言葉が伴う理想的イメージとその言葉に該当するにもかかわらず理想的イメージを満たせない敗北感・虚脱感などなどがあるんでしょうかね。もっと詳しく分析しようと思ったけどめんどくさ。

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