はてなキーワード: 不可知とは
私は、「常識」が必要ないとも、存在していて無視してかまわない、とも言っていない。むしろ、「常識」を知ることは、生活の知恵として大いに推奨されるべきである。
しかし、常識を知らない事によって、誰かが被害を受けた場合、その被害の責任を、被害者に帰するのは誤りだと言っているだけである。何故なら、被害者がその「常識」を知りえる共同体に所属しているかどうかは、我々にとって不可知だからである。だからこそ、責任を問うレベルにおいては、明文化の有無が問題となってくるのである。
全く、こうも単純明快な話が、何故こうも誤読されるのであろうか。
今世間で言われているような「オタク」っていうのは、いわゆる外部からの呼称であって、内部で強固な結束があるというわけじゃない。
味方オタ勢力>>>所謂一般人>>>敵対オタ勢力
であるとさえ言っていい。わかりにくいようであれば、別の言葉でいうと、「同じソフトウェア厨でも、アンチMSなFSF信者は、MS信者よりは無知な一般人に友好的であろう」といっていい。或いは、「ある宗教の信者は、敵対する宗教の信者よりは不可知論者を好むであろう」と言ってもいいかも知れない。かの無神論者の急先鋒たるリチャードさんも、「宗教と科学の融和を訴える学者やID論者とよりは、完全に科学見解を無視するような宗教的な人々と組む」というような発言をしているくらいで、外見的な派閥と内部での抗争の系図が異なっていることはしばしばなのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070521020030
私はキチガイ染みたほど宗教熱心な家庭に生まれ育ったので、一般によく言う「神なんかに頼るのは弱い証拠」という概念が理解しづらかった。
一般人は「苦しい時の神頼み」だろうが、自分にとっては逆に「苦しい時には神も仏もいないという絶望に陥る」ものだったから。
神を忘れて日常を慌ただしく生きている人と、毎日神様のご機嫌取りをしている人と、どちらも等しく逆境に遭う。
両親は「苦しいときでも神様にお祈りすれば必ず助けてくださる」なんて言うけど、そんなのはおとぎ話の世界のようにしか思えなかった。
もちろん、そんな自分の気持ちは両親に言うことなど絶対できなかったし、今もできない。
さらに言うなら、その宗教そのものが逆に自分を締め付けている気がしていた。
確かに「神は愛」かもしれない。でも神に従う事と、自称「神の代表者」に従う事とは違うではないか。
自称「神の代表者」が神様の御恩をダシにして、結局は自分の都合の良い道具として信者を利用しているだけではないか。
神様もさぞあきれている事だろう。
そんなある日、「不可知論」という言葉を知って、自分は不可知論者なのではないかと気付くようになった。
確かに私は無神論者ではない。しかし、有神論者とも言い難い。
神が存在するか否かは人類の永遠の謎でもいいのでは、と今では思っている。
あたかも「その答えはすぐに導き出せる」かのように言う人は、たいてい疑った方が良い。
神様をダシにして「あなたを神様のシモベにしてあげる」と言いながら、結局は権力欲の塊のような下劣な人間の奴隷なんかになるのが嫌であるならば。