2013-05-04

http://anond.hatelabo.jp/20130504150808

いや逆なんだよね。

君がやろうとしていることは、感性が乏しいという抽象的な概念を、琴線に触れる作品が少ないというより具体的な測定によって定義しようとしてるんだ。

この概念をこう定義しますという立場を認めるかどうか、感性を琴線に触れる作品数で定義する立場かどうかという論争なんだ。

感性を琴線に触れる作品数で定義する立場から見れば、「琴線に触れる作品が少ないということは、感性が乏しい何よりの証拠」になるんだけれど、

感性を琴線に触れる作品数で定義しない立場から見れば、たとえ琴線に触れる作品が少ないからといって感性が乏しい何よりの証拠にはならない。

くりかえすけれど、感性が乏しいという抽象的な概念をどう定義するかの違いなんだ。

記事への反応 -
  • 古今東西、漢文まで含む色んな作品群の中で、たった一つの作品にしか琴線に触れなかったのであれば、お前さん、言語の才能そのものがなかったってことじゃないか?

    • 才能がなかった?なぜ? ところで、学校という環境は何につけてもキョウヨウ臭さが抜けず、面白いものがつまらなく伝わる装置になっている、というのはあるんじゃないか。

      • いや、別に。お前さんが思うのなら、そうなんだろ? お前の中ではな。

        • 都合の悪いところは無視か 前段の問に答えろよ。これこそ「お前さんが思うのなら、そうなんだろ? お前の中ではな。」だろうが。

          • 琴線に触れる作品が少ないということは、感性が乏しい何よりの証拠だろうがwww お前には才能がないんだよwww受け容れろ無能ww

            • いや逆なんだよね。 君がやろうとしていることは、感性が乏しいという抽象的な概念を、琴線に触れる作品が少ないというより具体的な測定によって定義しようとしてるんだ。 この概念...

    • 言語の才能を、琴線に触れた作品の数で測定しようとする発想が斬新だね。

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