2010-08-04

はてな的多幸価値観の敗北と野生的直感原理の台頭

人は自分が有能であることの証明は容易に行なうが、無能であるという証明は難しい。

現在過去の可能性の発露を言うのであり。

現在人間過去の可能性の発露である、君は君の可能性の発露を今生きている。

まあ大雑把に言えば、生きるということは生物が保持している遺伝情報最適化であるのである。

要するに自分に発露しうる可能性がこれ以上無いという証明は、そのまま死刑宣告であるからである。

故に、我々は価値観の多様化という安全弁を設けた、世界に一つだけの花であり一人ひとり違う種を持っていいのだよ、君は君のままでいいのだよ。

こういった価値観の多様化は1と2の間に無限の値をとる哲学であり、理性的に両者の差異を自覚しにくくすることに成功したのである。

しかし、この哲学は多くの1を土台にしたものであることは2である我々には本質的には理解されていなかった。

我々は結局2であることを自覚することもなく1である人々の犠牲の上に漫然と社会を運営していたのである。

ここでの1とは発展途上国を指す。

物質面で言うならば、それはつまり国際競争力であり技術力である。

この世界では金が無ければ物は手に入らないのである。

つまり物資を得ようとするなら方法は二つだ、安いものを高く売って差益を得るか、武力で奪うかの二択である。

我々は価値観の多様化という一種の欺瞞によって、この美しい世界理屈を間違ったまま認識した。

世界の様相は全く変わっていないのに、我々は自ら産み出した新しい認識によって世界構造が変わっていったかのように振る舞い、誤って学習した。

古代中世近代→現代という古典歴史認識は我々を誤った結論に導き、これを信じる宗教を育んでいる。

しかし、現実はどうであろうか?

1と2は決定的な違いがあり、1という数字はどれだけ優秀な観察眼をもってしても2より少ないのである。

特異な君はそれだけでは無価値である。

生産性の無い人間はこの社会に生きている価値は無いのである。

たったこれだけの当たり前の現実すら歪んだ我々の視点からは認識できない「タブー」となっている。

かつてタブーだったものは何か?

キリストか?コーランか?王権神受説か?あるいは儒学か?

どれも古代に失われた絶対的価値観だ。

古代中世近代→現代という古典歴史認識とは全く別の意味世界は多様な価値観に満ちている。

そこには1と2という単純な違いがあるだけである。

野生的直感が勝利する時代が来ているのだ。

野生的直感は1と2を理性によらず選別することができる。

人権の時代は終わった。

万物に平等人権などはなから存在しえないのだ。これからは(というか世界はいつもそうだが)人間は生きているだけで価値があるわけではないのである。

中国を見よ、インドを見よ、あるいは道を踏み外しかけているがアメリカでもいいだろう、人権なぞ存在しなくとも国が発展すればそれで良いのだ。

彼らは我々がやったのと同じように、安価労働力と確かな技術力で他国の経済を壊滅させ己の利益を得ているのである。

一般的に生物は自らより多くの子をなす、生き残るにはそれらと戦う、生きるという本質は奪うことであり、それしか無いのである。

弱ったもの、劣ったもの、本質的無気力なもの、無産者、これらを不要なものとして切り捨てる時がきた。

我々は2であらねばならない、あまねく万物は生きるために2であろうとしそのために死力を尽くして戦っているのでありそれが正しい姿だ。

人間がまるで神に近づいたかのような幻想は捨て去るべきだ。

不能者を抱えて弱りきった我々の国家は野生的にあくまで合理的に、不要なものを捨て去り社会を形成する必要がある。

いや、国家の枠が無かったとしても我々が生きるために無能なものはいらないのである。というより、そのような余裕のある国家ではなくなったのだ。

人権ごっこは終わりだ、神々の児戯の時間は終わった。

この新しい野生的で至極当然な価値観は若い世代に確実に浸透している。

彼らは知っている。国内であろうが国外であろうが誰かから奪わなくては、生きていくことはできないのだということを。

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