http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20100422
そういうことじゃないだろう。
「内心の自由」ってのは、人を内心で罰する事をしないということだ。
「その結果に社会が責任をもてるのか?」と問うなら、それに対する返答は「反社会的な思想は取り締まりの対象」にしかならん。
そうしたいのか?
ある価値観が間違っていると感じるなら、「間違っている」と思えば良い。
間違った価値観を良いと思うものが多いのなら、「間違っている」と世に問いかけるのも良いだろう。
その問いかけに応じるものがいれば、その人は自己の意思で価値観を変えるだろう。(内心の自由)
だが、その考えを他人に強制する(内心の自由を認めない)のは、おかしいと思うのだが。
ちなみに。
アメリカでの黒人差別に反対し抗議した人らの活動は、なによりも、そのような差別を当たり前のもの、自明のこととしていた人らの意識=内面への問いかけを伴うものであったはず。そして、そのような批判を多くの人が正当なものとして受け入れた結果、現在では、少なくとも、公然たる「人種差別」は非難されるものという合意が社会的に成立したということだ。
内心の自由があったればこそ、「黒人差別が自明であったときに、それに反対する意思を持てる」のだと思うのだがなぁ。
つまるところ、彼らの主張と言うのは「(自分達の正義に則った)良心の自由」であるのだよな。
もっといえば、「良心の強制」か。
他人に良心を強制するなといったって相手が拉致して脳改造をしてくるわけでもないんだから それだけで内心の自由が侵害されたことにはならないんじゃないの? ていうかみんなが考え...